筆者は学生時代に初めて教育投資論に接した。当時も今も、教育を「投資」と考える考え方には大きな抵抗があることは知っているが、その感情的な反応こそが教育をシステム論の観点から分析できない主要な原因のひとつである。特に、子育て支援は公金を投資する複合的な事業である。文部科学省の補助事業「子ども教室」推進事業も、福岡県のアンビシャス運動の事業も「子ども一人あたりの公的資金」の効率性の算定計算式に当てはめてみれば、余りにも公金の投資効果に対する発想が貧しいことが明らかであろう。二つの補助事業の大部分は「子育て支援の経済学」の視点からみれば落第である。
1 直接目標と間接目標
子育て支援の直接目標は子どもの「安全」と「生きる力」の向上である。しかし、間接的な隠れた目標は他にいくつもある。その第一が「支援」によって大いに救われ、また元気づけられる女性の社会参画条件の整備である。また、熟年層が指導を買って出てくれた場合には、活動によって彼ら自身の活力を回復・保持することができる。なぜなら、活動が人間の心身の機能を活性化し、活動の結果与えられる社会的承認が熟年の自尊感情をエネルギーに変えるからである。しかし、子育て支援を看板にしながら、合わせて熟年の生きる力も向上させるという間接的な目標の実現のためには、子育て支援と熟年層の活用プログラムを総合的に組み合わせなければならない。熟年の力を社会的に登用して初めて可能になる原理である。それゆえ、熟年の「生きる力の保持・存続」こそ子育て支援の「方法論」に関わる極めて重要な課題なのである。この時、「生きる力」の向上はひとり子どもの問題に留まらない。方法を工夫することによって、熟年の生きる力を保持し、女性の元気を合わせて保障できるとすれば、子育て支援プログラムは、もはや子どもの問題に留まるはずはないのである。子どもの元気が熟年の元気を引き出し、ひいては女性の元気につながって行けば、最終的に地域は活性化する。子育て支援行政は今や地域活性化のカギを握っているといっても過言ではないのである。
かくして、子どもの「安全」と「生きる力」の向上を確かなものにする課題は、「居場所」の確保と「活動のメニュー」の創造である。もちろん、居場所を確保しても今の子どもに自分達で少年集団を作り上げる力はない。活動のメニューを提示したとしても、自分達の力で自らの活動を生み出して行くこともほとんど不可能である。すでに子どもを取り巻く社会生活の実情は親の子ども時代とは根本的に異なる。祖父母の時代とは隔絶している。当然、子どもも昔の子どもではない。
従って、子どもの居場所を彼らの「生きる力」の向上につなげるカギは、どうやって日常活動の指導者を確保するかである。すでに地方行政に指導者を招聘する財政的余裕はない。その時、総合的子育て支援を実践に移すカギはどこにあるのか?以下は子育て支援総合化計画の5W1Hである。
2 WHY−今、なぜ、子育て支援か?
子育て支援の問題は他の問題以上に5W1Hの分析に配慮しなければならない。5Wの最初は「WHY」である。「今、なぜ、子育て支援か?」である。元来「私事」であった子育てをなぜ支援するのか?、なぜ、「今」なのか?。当然、単一の理由ではない。現代の子育て支援は「複合問題」である。子育て支援の理由は、大きな政治課題から相対的に小さな個人的課題に向かって、沢山のちいさな「なぜ」に再分解される。
第一の「なぜ」は「少子化」である。少子化は「生産人口」を減少させる。生産人口の税負担によって現行の社会システムを支えている事実を思えば、何としてでも少子化を防止しなければならない。現行の福祉システムが崩壊すれば、多くの高齢者は路頭に迷うことになるからである。
第二の「なぜ」は少子化の原因である。少子化は基本的に女性の意志がもたらした結果である。女性の元気を 向上させうるようなプログラムがなければ、子どものプログラムだけを展開しても少子化防止の効果はない。現行の子どもプログラムが少子化対策になり得ないのは、女性をサポートするプログラムとの組み合わせが不十分だからである。
第三の「なぜ」は、家庭の教育機能の衰退である。家事も、育児もその大部分を女性に負わせた上で、家庭に教育力を!、という方が無理というものであろう。現状では、家庭に十分な教育力は期待できない。その実態を前提にして、子育て支援プログラムおよび子どもの活動プログラムが企画されるべきである。個々の家庭の状況を放置しておいて、家庭の「教育力向上」を唱えても、効果はでない。現代の危機的状況は、家庭の教育力に関するお題目を唱える以前に、個々の家庭に代わって子どもの健全な活動を保障するプログラムが先決なのである。
第四の「なぜ」は「子どもの生きる力」の衰退である。現代の子どもはへなへなである。子どもを鍛え、自立させるプログラムがどこにも存在しない殻である。「生きる力」は「それを培う「プログラム」の関数である。教育界も、保育を担当する福祉の分野も自らの責任を忘れている。
第五の「なぜ」は女性の社会参画の条件整備の必要であろう。女性の社会参画の必要は世間も認め、男も認め、法律も認めている。にもかかわらず、日常の現実は、子育て支援一つをとっても女性の参画を保障してはいない。子育て支援は子どもへの支援に優るとも劣らぬ重要度で女性の社会参画を支援しなければならない。結果的に、「育児」の責任も又社会が負うべき分担を大きく変えない限り、少子化は止まらず、子どもの「生きる力」も向上しない。
第六の「なぜ」は子どもの安全を保障し、劣悪な環境からの保護するためである。「子どもの居場所」が問題になるのはその為である。現状のように、公民館や児童センターのような限られた施設を活用している限り、十分な居場所など確保出来る道理はない。まして、福岡県が実施している「アンビシャス広場」のような地域や街角の遊び場など問題外である。現代の子どもの居場所を確実に確保する為には学校施設の地域開放以外にはあり得ない。学校のコミュニティ・スクール化こそが「子どもの居場所」;「活動の拠点」を物理的に確保する解決策である。したがって、学校の施設・機能は通常のホームルームを除いて原則的に開放されなければならない。多くの教育委員会はこのことを理解せず、学校は施設・資源の開放を頑なに拒否し続ける。文部科学省も「学社融合」などとできもしない空論を言うばかりで、学校施設を地域と共同利用するための施策や指導は皆無に近い。子どもの安全を保障し、劣悪な環境から守るのは、子どものために設計された学校施設群であり、学校施設を存分に活用したプログラムの提供と指導者の確保である。
第七の「なぜ」は母の「自由」を確保するためである。乳幼児を抱えた母には、余裕もなく、自由もない。しかも、多くの現代家族は核家族であり、地域の生活スタイルは変わり、時代の風潮は個人主義である。コミュニティに子育て支援のシステムが存在しない時、多くな毋は出会いも、交流も、相談の機会すらもない。子育て支援は、母の孤立を予防し、自由を確保し、正気を保ち、元気を維持するシステムである。現代の母のおかれた状況の危機は、頻発する育児ノイローゼが雄弁に語っている通りである。
最後の「なぜ」は世代間交流や地域の活性化である。子どもは地域の人々を繋ぐ「環」に成り得る。以下に取り上げた事例のように、労働を終わった熟年者や子育てを完了した先輩女性が子育てを支援すれば、巧まずして支援事業は地域の世代間交流を促進する。ボランティア文化も向上させる。人々の交流が地域の活力を生み出し得る。財政難の今日、地域住民の支援を得て初めてプログラムの指導が可能になる。
現行の支援プログラムの大部分は、量的に不十分であり、時間的に単発的であり、質的には内容・方法ともにプログラムが貧弱で、指導者も不十分である。それゆえ、子育て支援の最大の課題は指導者の発掘と活用である。その結果が必然的に地域の世代間交流と活性化に繋がって行くのである。
もちろん論者によって、どの「WHY」についても、課題の重要度は異なるであろう。上記の順序は筆者の問題意識の順序である。地域の実情に応じて組み換えることは言うまでもない。子育て支援の必要も、理由も、論者の立場により、意識によって、論じ方は大いに異なる。
3 実践事例:「豊津寺子屋」の複合効果
(1) 「豊津寺子屋」事業を想定した背景は以下の通りである。
地域社会が当面する課題は、少子化であり、高齢化であり、男女共同参画の条件整備の不十分であり、少年問題の多発であり、財政難であり、最終的には、これらの問題に対処する分業化された現行システムの制度疲労である。これらの諸問題は、同時多発的に発生し、それぞれに絡み合って、地域課題を複合化している。
(2) 事業の具体的目標
「豊津寺子屋」における子育て支援の論理と方法は、第1に、子どもの居場所にプログラムを付加して「青少年の健全育成」を果たし、第2に、子どもの指導を通して「高齢者の活力」を引き出し、第3に、「保育」と「教育」を融合して男女共同参画の条件を整備し、第4に学校施設を活用することを通して「コミュニティ・スクール」の実現を図り、最終的に、財政難時代の地域の複合問題に対処する官民協働の「総合的システム」を創造することである。
(3) 問題は「複合性」である
子育て支援をめぐる問題は複合的であり、その停滞の原因も多種多様である。しかし、最大の原因は、現行の行政制度の「縦割り」の壁であり、保育と教育をバラバラに行っていることである。学童期における保育と教育の分離は、結果的に、子育て支援のシステムもプログラムも、人、もの、金、時間等社会的資源の無駄と徒労を生み出し、地域の複合的課題に応えるシステムを作り得ていない。
それゆえ、子育て支援の最適のシステムを構築するためには、保育と教育を結合することに留まらない。財政難を考慮し、高齢化も視野に入れ、社会に参画する女性の条件整備を果たし、学校のあり方を含め、従来の分業を見直し、行政の硬直的な縦割りを正さなければならない。
2. 「豊津寺子屋」の評価視点
(1) 子どもは変わったのか?
以下は保護者用のアンケート調査に準備した子どもの変容調査の視点である。
『寺子屋では異年齢の少年集団を考慮した様々な活動を準備いたしました。日々のご家族の生活の中で、寺子屋活動の教育効果がなんらかの形で見られたでしょうか?次にかかげるのは「寺子屋」が目標とした事項の一覧ですが、これらの中で特にお子さんの進歩が著しいと考えられるものがございましたら2つだけその記号を選び、合わせてどんなところからそう思われるのかその判断理由を教えていただければ幸いでございます。』
「寺子屋」がめざしたもの
a 体力の向上
b 友だち仲間や集団生活への適応
c 物事への集中力・持続力の向上
d 基本的な礼義・作法の習得
e 言葉使いや表現力の向上
f 家族や友だちに対するやさしい行為や思いやりの態度の実践
g 気に入らない状況や辛い条件にも耐えられるがまん強さ
h 義務や役割を果たす責任感
i 協力する態度
j 学力の向上
k 物事に対する意欲や積極性の向上
l その他( )
(a) 一番目立った変化とその判断理由
(b) 二番目に目立った変化とその判断理由
(2) 女性の日常にはどのように役立っているのか?
次の項目は母親に尋ねた寺子屋事業の生活支援効果である。果たして女性は就労支援効果を選ぶのか、それとも育児・教育支援効果を選ぶのか、それとも両方を同時に選ぶのか?
『「寺子屋」事業は女性の日々の生活にどのように役立っているでしょうか?次の項目は「女性政策」の立ち場で「寺子屋」事業の役割を想定したものですが、あなたの家族に当てはまるものがありましたら2つだけ選んで、その記号を( )の中にお書き下さい。また、感想や理由があればご自由にお書き下さい。』
a 女性の仕事・就労を援助する
b 育児・教育の応援を得て、家庭教育を補完する
c 家族、特に女性の自由時間を確保する
d 放課後や休暇中の子どもの安全を守る
e 子どもに集団生活の機会を提供する
f 家族と地域の人々とのコミュニケーションを深める
g その他( )
(a) もっとも役立っている事とその判断理由
(b) 二番目に役立っている事とその判断理由
(3) 高齢者はお元気になったか?
以下は熟年が中心である「寺子屋」事業の「有志指導者」にお尋ねした質問項目である。子どもの指導・援助を通して明らかに多くの指導者がお元気になられているが、本人はその活力源をどのように捉えているのか?
『「寺子屋」事業は先生の日々の生活にどのような意味をもっているでしょうか?次の項目は「有志指導者」のお立ち場で「寺子屋」事業の「意味と意義」を想定したものですが、あなたに当てはまるものがありましたら2つだけ選んで、その記号を( )の中にお書き下さい。また、感想や理由があればご自由にお書き下さい。』
a 自分が必要とされ、やり甲斐・生き甲斐を見つけることができた。
b 育児・教育の応援をすることで多くの家族の役に立てていると思う。
c 多くの保護者、仲間との交流・コミュニケーションが向上した。
d 子どもの指導を通して自分自身の心身の活力・健康が向上した。
e 寺子屋の生活指導を通して地域の大切さが分った。
f 寺子屋指導は自分の家族内のコミュニケーションを深めた。
g 自分が役立ち、自分の能力を発揮するのは楽しい。
h その他( )
(a) もっとも意義を感じている事とその判断理由
(b) 二番目に意義を感じている事とその判断理由
(4) 行政評価−地域住民のどこが変わったのか?
1 寺子屋は子どもの「居場所」になっているか?
2 子どもは学ぶべきものを学んでいるか?
3 高齢者はお元気になっているか?
4 女性の役に立ち得ているか?
5 学校はコミュニティの学校になり得ているか?
註(学校の活用によって「移動の不要」による「子どもの安全」を確保し、子どものために作られた施設を拠点として「活動の多様性」を保障し、合わせて「経費の節減」を図っています。)
6 「寺子屋」の事業形態は財政節減に寄与しているか?
7 「寺子屋」の事業形態は役場内の異分野間連携に寄与しているか?
8 「寺子屋」の事業形態は住民との「協働」になり得ているか? |
4 教育投資論再考−節約の経済学
「豊津寺子屋」の原理は「保教育」である。「保教育」に使われる金は明らかに公金の投資である。投資である以上は、効果と節約がカギである。投資の意義を証明するためには、できる範囲で事業の効果と投資効率の計算結果が示されなければならない。換言すれば、教育投資論の視点から「子育て支援の経済学」が論じられなければならない。問われるべきは以下のような問題である。
(1) 子育て支援の基準単価はいくらか?
基準単価の計算式はどのような項目を含むべきか?各「子育て支援システムや実践」の基準単価の比較が可能になれば、事業の効率評価ができるようになる。最も単純な基準単価の算定式は以下の通りであろう。比較すべき要素は、「1日当たりの単価」、「児童一人当りの単価」、「時間あたりの単価」等である。
(a) 「1日当たりの単価」
「投入した公金」÷「延べ事業日数」
(b) 「児童一人あたりの単価」
「投入した公金」÷(「延べ事業日数」×「参加児童数」)
(c) 参加児童一人あたりの「時間単価」
「投入した公金」÷(「参加児童数」×延べ日数×活動総時間)
=「児童一人あたり、1時間に費やした公金経費」
子育て支援の各事業ごとに上記の公式に当てはめて計算してみれば、税金の投資効率の差は歴然たるものであろう。
(2) 学校施設共用による建設コスト/維持管理費のコストの節約
「豊津寺子屋」の拠点施設は学校である。豊津町の財政課長は最も敏感に「寺子屋」事業がもたらす財源の節減効果に反応している。豊津町ではすでに児童センターを休館にしている。そこで行なわれていた「学童保育」は「豊津寺子屋」に統合され、独立の施設として光熱水費を支出する必要は無くなった。学童保育の非常勤嘱託の職員経費も、寺子屋活動を支えるボランティアの「有志指導者」の費用弁償に変わった。児童センターの休館措置だけで何百万円かの予算が浮いている。子育て支援の拠点を学校以外のところにおいている自治体がどれほどのコストを掛けているかを計算しなければならない。子育て支援でも、学社が連携すれば様々な経費の節減が可能なのである。学校を拠点とすることによって、子どもの移動の心配がなければ「安全パトロール」などの回数も減る。恐らく、そこで個々人が消費する時間的コストやガソリン代などは計算されたこともない。
更に、学校が本気で子育て支援にコミットする時代が来れば、現在、保護者が負担している「安全保険」料は「学校安全会」がカバーすることになる。「豊津寺子屋」の場合、学校の無関心は百数十名の保護者に毎年500円の保険料を負担させているのである。
(3) 女性の自由時間がつくり出す労働経費の算定
子育ての意義、楽しみは経済学的な算定とは全く別の話であることは論を待たない。当然、教育投資論は人生の意味とは切り離して論じている。しかし、子育てもまた労働であり、負荷である事に変わりはない。
ジョン・ベイジーの教育投資論によれば、働ける人が、働くことの条件が整っていないために得ることのなかった所得は「放棄所得」と呼ばれる。学童期の子どもに対して「豊津寺子屋」のような社会の「養育システム」が確立されていれば、女性は就労が可能であったはずである。就労女性が獲得する賃金の額も、働けば働けたはずの「放棄所得」の額の計算も成り立つ。
特に、長期休暇中の「豊津寺子屋」は朝の8:00〜夕方の6:00である。社会が提供する養育機能は、1日10時間家族を子育ての労働義務から解放する。仮に、こうした「養育機能」が存在しなかった時、家族はどのくらいの不便に耐え、その結果どのくらいの支出を要求されることになるのか。自由時間も利便性もすべて家族の負担で購った時のことを想定すれば、養育の社会化の経済性に想像力が働くであろう。現在、「豊津寺子屋」が保障している自由を確保するために子どもの「保教育」を外部に委託するとすればその時の家族負担の経費はいくらになるのか?
子どもの発達は経済価値に換算は出来ないが、寺子屋の教育プログラムは塾や習い事に比定してその経済効果を計算することができる。比較できるとすれば、どのくらいの「学習料」に匹敵するのか?寺子屋の経済学の一端として計算が試みられて然るべきであろう。
(4) 熟年期の医療・介護費の削減による経費の節減
健康の喜びや生き甲斐の充実感は数字に表すことは出来ない。しかし、一般高齢者の平均医療費と「寺子屋の有志指導者」の平均医療費を年齢層別に比較してみれば、医療・介護経費の削減率が計算可能になる。介護の必要経費については、指導者の年齢層ごとの体力や気力の測定と全国平均との比較が必要である。体力測定の結果が、全国平均と比べて優っていれば、明らかに介護の必要は先送りすることができる。百五十名になんなんとする有志指導者の内の10−20パーセントが介護の必要を先送りできたとして、節約できる介護費は一体いくらになるのか?このような計算を想定するだけで生涯学習と介護福祉の連携が不可欠であることは明らかであろう。
5 未来の子育て経済学
(1) 給食センターを廃止せよ!
「豊津寺子屋」は「学童保育」を教育事業に統合している。それゆえ「保教育」事業と呼んでいる。地方でも就労可能な女性人口の約70%が何らかの形で就労している。多くの家族は共稼ぎの労働形態である。給食センターが子育て支援に機能していれば、夏休みのプログラムでは、昼食にできたての食事を準備することができる。保護者はどれほど助かることか。「実行委員会」も子どもが持参する弁当の腐食防止に気を揉む必要もなくなる。まして、学校だけに限定された現行の給食センターの稼動率は年間180日程度である。基本的に1年の半分しか仕事はない。給食センターの職員が公務員である限り、給食を出さない期間であっても給料は支払われている。給食を「アウトソーシング」の発想で民間に"戦略的に外部委託すれば"、サービス内容を低下させることなく、財源は大幅に削減できる。削減分を別の教育活動に投入することも可能になる。
(2) 特別プログラムのアウトソーシング
学校は水泳指導や英語指導など、特別な知識や技能を必要とする分野の指導者はアウトソーシングすべきである。学校をスリム化して、寺子屋事業が教員と連携して実施できるようになれば、学校と子育て支援の両方を担当する教員も生まれて来るであろう。そうなれば、子育て支援コストは一気に縮小する。現行の学童保育の正式名称は「放課後児童健全育成事業」である。「健全育成」が教育機能であることは言うまでもない。学童保育に学校が参加することは論理上全く不都合はないのである。かくして教育投資論に基づく分析は、学校管理論にも、教育組織論にも、教育システム論にも通じているのである。
総合的学習を契機に始まった「ゲストティーチャー」の導入は、文字どおり「特別プログラムのアウトソーシング」である。その外にも、年間僅かな日数しか使われる事のないプール一つを取っても、巨大な建設コストを取りやめ、民間のスイミング・スクールに指導を委託すれば、水泳の上達はもとより、公金の節約と地域経済の活性化を同時に達成できる。機能不全に陥っている英語指導も同じである。教育投資論からの分析は現行教育のあり方を様々に進化させ得るのである。
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