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(第50回生涯学習フォーラム 参加論文)

「型」の教育 −脳生理学が証明するその論理と方法−

平成16年10月16日(土)

福岡県立社会教育総合センター

三浦清一郎

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1  学ぶ仕組み−三つの学習原理

   学ぶ仕組みの基本は「模倣」と「体験体得」と「同調」である。大人も子どもも学ぶ原理は変わらない。
   第1の「模倣」は「モデリング」である。「学ぶ」は「まねぶ」である。「まねる」とは「モデル」のやるようにやることである。原理は「まね」であり、手本をなぞることである。モデルは人間の場合もある、教科書のような知的な手本の場合もある。それゆえ、理解もまた模倣であり、考えもまた模倣である。先人の手本なしに新しい発想は生まれない。「新しさ」もまた知識と経験の蓄積の模倣を土台として築かれる。
   第2の「体得」は「直接経験」を意味する。「体験」によって「体得する」とは身体の5感が学ぶことである。昔から「覚えて忘れろ」という。「身に滲みる」といい、「身に付く」といい、「腑に落ちる」という。頭で理解することは「体得」したことにはならない。頭が理解しても身体は実行できない。分かっただけでは行動は変わらない。「覚えて忘れろ」の先には「反復のすすめ」がある。身体が自然に反応するようになるまで練習を繰り返すということである。立ち居振る舞いが「身に付き」、教訓が「身に滲み」、事物の関係が「腑に落ちる」というのは単なる理解とは異なる。行動も考え方も身体に馴染んで初めて自然になる。「板に付く」とはこのことであり、「様になる」というのも同じである。
   人生の日常は考えながら生きているわけではない。われわれの行動の大部分は「型」と習慣に従う。考えて生きるのはほんのわずかの瞬間に過ぎない。子どもの成長に基本的生活習慣を根付かせることが大事なのはそのためである。習慣の体得に体験が欠かせないのは言うまでもない。体験の欠損が成長を損なうのは行動の「型」や習慣が根付かないからである。教育が当面する問題は「型」の習得が不十分になることと「型通り」のくり返しから抜けられないことの二つである。現代教育が当面する問題の大部分は「基本型の習得の不十分」であることは言うまでもない。「基本型の欠如」は、基本体験の欠損に起因し、「生きる力」を身に付ける「体得」の軽視に起因している。
   第3の「同調」は「集団圧力」の結果である。同調が起るのは、集団の「空気」による圧力の結果である。「みんなそうする」、だから、「僕もそうする」、というメカニズムである。集団の雰囲気が心理的圧力となってメンバーの同調を促すのである。個人の側から見れば、集団の雰囲気や規範に「感化」を受けるという言い方もできる。多くの場合、本人はすすんで「同調」しているので、集団の圧力を自覚しない。あいさつをする家族の子どもは教えなくてもあいさつをする。それが家風の原形である。同調を確固たるものにするため「家風」は「家訓」によって補強する。「雰囲気」と「スローガン」の二つが共鳴して、規律正しい集団ができる。規律正しい集団のメンバーは各人の特性や能力を超えて規律正しく行動する。反対に、だらしないクラスの子どもは各人の特性や能力に関わりなくだらしなくなる。指導者が集団やクラスの「空気」を正すことの重要性はいくら強調しても強調し過ぎることはない。世間が校風を重んじ、校訓を掲げ、社風を創ろうとして社訓を朗唱するのは、集団の雰囲気が個人の能力も意欲も律することを自覚しているからである。
特に、成長期の子どもの集団の空気は指導者の姿勢と指導方法如何で一気に変化し得る。現代の家庭や学校が当面している問題の一つは「集団の空気」に緊張と向上の精神が欠けていることである。家風は古臭いとして顧みる人はいない。家訓はすでに文化的遺物であろう。多くの学校においても、校訓はあってなきがごとく、結果的に、校訓の実践は行われず、校風が育つはずもない。


2   「型」の指導の枠組み

  「模倣」と「体験体得」と「同調」を組み合わせて何を教えるのか?
  学ぶ原理が「模倣」と「体験体得」と「同調」であれば、指導の基本はこれらの組み合わせである。教育の問題は幼少期の子どもに何を教えるかでその方向性が決まる。答は原始の時代から決っている。教育の中身は「一人前の条件」である。一人前が半人前を育て、やがて一人前に育った半人前が次の半人前を育てる。これが社会の世代交替のサイクルである。もちろん、その中身は時代によって多少は変化した。塾や学校が出来て分業のシステムも進化した。しかし、学ぶべき基本も、教えるべき基本も、ほとんど変わってはいない。抽象的に言えば、学校教育が掲げる「知徳体」の3領域である。ただし、教えるべき順序は、体徳知の順である。それが人生と社会生活における重要度の順序だからである。それゆえ、一人前教育の基本は『丈夫なからだと行動の規範と読み書き計算』である。「行動の規範」を支えるものは、体力と道徳性と思いやりである。「読み書き計算」は基礎学力の事であることは言うまでもない。かくして「一人前の条件」は日本社会が当面している子どもの「生きる力」の具体的内容と重なる。

3  「型」の否定−「他律」の否定

(1)  内容論の曖昧と方法論の混乱
  日本の教育行政の問題は「生きる力」の定義が抽象的で曖昧であることである。それに従う学校も同じである。学校は、「一人前の条件」を定義してもいない。したがって、保護者と教員が共通に理解している「一人前」の課題も不明である。結果的に、あちこちの研修会は花盛りであるが、教えるべき中身についての合意はない。チグハグなのは内容に留まらない。最大の課題は方法論の混乱である。
  現代の教育は、子どもの興味関心、子どもの自主性や主体性を重んじる。結果的に、子どもの自律を重視し、子どもが「考える」ことを重視する。「考える力」の備わっていない者に「考えること」を要求すれば、教育が混乱するに留まらない。教育の指導から基本の「型」が抜け落ちる。「型」は「考えること」を要求はしない。「型」を実践し、体得することを要求する。それゆえ、「型」が抜け落ちるとは、「体験の要求」が抜け落ち、「他律」が抜け落ちることである。


(2)  「型」の指導への批判

  多くの関係者は、「他律」は強制であるという。「型」の指導は「詰め込み」だという。「型通り」は「創造力」を失わせる、ともいう。さらに、「他律」は管理主義教育と同じだと錯覚している。これらの批判は木を見て森を見ない。確かに、他律は「強制」を含むが、安全でも、健康でも、学習でも、「生きる力」の無い子どもに必要なことを強制するのは当然である。指導者の配慮一つで、子どもがすすんで他律に従う時、すでに子どもに被強制感はない。
  「型」の指導は「詰め込み」であるが、必要な基本的能力を詰め込むのは当然である。詰め込んでもらえなかった子どもの不幸を考えて見れば明らかであろう。「型通り」は、確かに「創造」の反対の極にあるが、対抗すべき型枠がなければ、それを打破するような創造性は生まれる道理がない。「創造力」こそは「基本型」に精通した人間による「型」の破壊であり、革新である。「型」の指導は知育ではない。「型」は体験を通した「体得」である。知識を詰め込めば達成できるような安易なものではない。管理主義は確かに、教育の活力を殺してしまうが、内部に自律を含んだ他律は「管理主義」とは原理的に異なる。「型より入りて、型より出ずる」という哲学は教育に秩序を与え、子どもに向上の方向を与える。浅薄な批判は「他律」と「抑圧」を混同するが、「他律」は教育が設定する枠組みである。「抑圧」は支配であって、教育ではない。「管理主義」は抑圧の別名である。管理主義の否定は、学校官僚主義への反動であるが、現代の教育は、「抑圧」と「強制」を恐れる余り「他律の重要性」までも否定してしまったのである。「他律」と「管理主義」の混同は、教育における自主性と人権論の呪縛に起因している。「自律」と「自侭」の混同の原因も同根である。「他律」という厳しいガイダンスを伴わない「自律」が「わがままと勝手」に陥るのは時間の問題である。その事実は、現代の子どもの現状が雄弁に物語っている。

(3)  「半人前」の主体性

  子どもと大人を同等に扱うのは教育の重大な誤りである。発達途上の子どもの主体性と「一人前」の主体性が異なることは当然である。「半人前」の自主性は定めた枠の中で発現させれば良い。発達途上の子どもの主体性と「一人前」の主体性を同格に扱うことは重大な誤りである。「半人前」の主体性は、「一人前」になるための教育活動に従属させるべきである。指導の中で「君はどうすれば良いと思うか?」と聞けばいいのである。子どもの主体性を勘案しながら、合わせて「他律」を生かそうとすれば、学ぶべき「型」の枠を決めなければならない。「まね」をするためには、手本とモデルの設定が先行する。体得するにも体得すべき基本の型を設定しなければならない。例えば、それらは、「協力」体験であり、「責任」分担体験であり、「義務」の遂行体験であり、「困難」体験であり、「思いやり」の実践体験である。これらのモデルは子どもの興味・関心に先行する。「型」は先人と歴史の選別に耐えた「価値と知識と技術」の体系である。伝達されるべき文化の核心である。それゆえ、「型」は、すべての学習の「土台」であり、「下地」であり、基本である。それゆえ、行動の規範を教えるとは、まずはあいさつ・礼儀・作法・服従・発表など「行動の型」を教えることである。読み書き計算も「型」から入る。それゆえ、基本教材の音読や書写から始める。言葉もまた「文型」であり、文の「型」は理屈ではない。文字も又基本は「表記の型」の組み合わせである。100マス計算のような基本ドリルはかけ算九九と同じく数字の組み合わせの基本「型」の習得である。これらの指導は子どもの興味・関心とは基本的に関係はない。子どもの興味関心は指導の工夫によって作り出さなければならない。学習への熱意は自然発生的には生まれない。
  「型」の指導は発想の根本において、子どもの興味・関心から出発する「児童中心主義」と対立する。それゆえ、「児童中心主義」を重んじた戦後教育では、「型」の指導は厳しい批判の対象となり、現在でも「詰め込み」教育の象徴として極めて冷ややかに扱われているのである。


4  「型」の指導の特性

   「型」の教育は意味が後から来る。子どもは「型」を自分では選択しない。「型」は先人の知恵として子どもの興味/関心の以前に「先在」している。子どもの興味・関心の故に「型」をきめるのではない。「型」に価値があるので「型」の中身を決めるのである。それゆえ、「型」の指導は「子どもの主体性」論と正面衝突するのである。「型」の指導は、子どもの興味・関心を前提としないので「詰め込み」である、という非難が生じる。反対論の根拠は間違ってはいない。「型」は究極の「詰め込み」である。しかし、「究極の」とは単なる知識の詰め込みではないという意味である。「型」の指導は「子どもの主体性」をある程度無視せざるを得ない。「主体性」や「自主性」は「型」の枠内でしか認めない。学ぶべき「型」の枠の中で『君ならどうすればいいと思いますか?』と聞くにとどまる。
   安達忠夫は、素読の効用を説き、自らもその実践をして来た。安達は"素読は頭の理解を拒絶した方法である"と主張する。『素読は知識の詰め込みとは正反対である。頭で容易にわかることを遮断し、虚心坦懐、言葉の響きとたわむれる無心の遊びに近い。私たち大人は、ことばを抽象的・理知的なものとしてとらえがちで、響きや、リズム、抑揚といった感性的側面を捨象してしまう。だが、子どもはちがう。(...中略)意味や内容はずっと遅れて、あとからゆっくり育って行く。表面的な意味をせっかちに求めない。「わかった」つもりにならない。 ーーそのことがかえって好奇心を持続させ、精神を深耕する。』(*1)安達は素読を学習の「下地」づくりと呼び、有機農業における「土づくり」に例えられるともいっている。脳生理学者の川島が音読を脳が学習する際の「準備運動」と呼んだのに符合している(*2)。
   指導の重点は、子どもが必要とする「よきもの」、「価値あるもの」を「詰め込む」ことに心をくだくことにある。素読が古典を重んじたのはそのためである。文化が承認する作法や礼儀を重んじるのも同じ理由である。
   「型」の指導は「反復」を重んじる。身に付くまで反復する「持続」がカギになる。「型」は体得の対象だからである。体得は自分でやってみない限り学ぶことはできない。「型」は子どもの身に付いて始めて「型」である。反復にも持続にも時間と手間がかかる。「促成栽培」はできないのである。したがって、教材は限定せざるを得ない。素読がその典型である。この時の原理は、「学ぶ」というよりは「慣れる」ということである。行動に慣れ、言葉に慣れ、考え方に慣れることである。「習うより慣れろ」が「型」の教育の原点である。

(*1) 安達忠夫、感性を鍛える素読のすすめ、カナリア書房、2004年pp.5〜6
(*2) 川島隆太、脳を育て、夢をかなえる、くもん出版、2003年、p.100



5  「学び方」を学ぶー「素読の定義」を学ぶ

(1)  素読の特性

   「型」の学び方は「素読」の定義を見ると共通の原理が理解できる。広辞苑は『文章の意義の理解はさておいて、まず文字だけを声を立てて読むこと。漢文学習の初歩とされた』という。他の辞書の定義もおよそ同様である。安達は素読の歴史や実践法を分析して、その特色を10項目にまとめている(*3)。その中から「型」の指導と学び方の原理を筆者なりに抽出すれば以下の6項目になる。

(*3) 安達忠夫、前掲書、pp.51〜52

● 素読の特色 ●
   @ 文字や文章を、声を出して読んでいく(目と耳と口の総合)。
   A 生徒がオウム返しに先生のまねをする場合もある(復唱)。
   B 何度も繰り替えして読む(反復)。
   C 意味内容の説明はしないのがふつう(知性よりも感性重視)。
   D いつのまにか暗唱できるようになるとしても、最初から暗唱をめざさない。
   E 初歩の段階の学習として行われた。
   F その後もしかし、剣道の素振りや楽器の指練習と同じで、ウオーミングアップになる。
   G 日常的な言語ではなく、詩文や漢文(つまり古典)が中心。オランダ語や英語など、外国語習得にも応用された。
   H 中世以来盛んになり、江戸時代がピーク。明治以降は急速にすたれていった。
   I かつては外国でも古典や聖典を学ぶのに同じ方法を用い、現在も同じ方法をとっている場合が多い(仏教、ユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教など)。


(2)  「型」の指導と学び方

第一は、学ぶことに「感覚を総動員」する。練習に「5感を総動員」する。学ぶ原理において、素読は「体験」に通じている。
第二は、「反復練習」である。あらゆる技能の習得、あらゆる行動の習得と共通している。目指しているのは、考えずにできるようになること、意識せずに身体が動くこと、より自然になるまで教材に「慣れる」ことである。「慣れ」が目標である以上、「定期的」、「集中的」、「持続的」に反復することが重要になる。
第三は、知性より感性、学習ではなく体得、理解より慣れである。
第四は、実践の重視である。実践は一人でもよく、集団でもいい。学ぶスタートは「やってみること」である。
第五は、別の種類の学び方と組み合わせることが重要である。何ごとを学ぶにせよ、「型」の反復は常に実践の基本に返って「慣れ」の感覚を失わないためである。「型」の反復が、学ぶという作業のウオーミング・アップや準備運動の機能を果たすのは「型を踏む」ことによって、常に原点の感覚に戻ることが可能だからである。
第六は、練習の素材・教材は歴史に耐えたものを採用する。素読に古典が選ばれるのはそのためであり、作法の型も、武道の型も同じ原理で選択されている。素読の実践は、あらゆる「型」の学び方を象徴している。


6   川島理論の革命性

(1)  「前頭前野」の重要性

   川島理論は教育方法に革命をもたらす。少なくとも、原理上の一大変革を示唆している。川島の実験研究は脳の働きを通して「学び方」の重要性を証明したことである。脳の活性化の要因が、はからずも「素読」や「音読」の重要性を証明することになった。川島の研究は、音読や百マス計算の教育実践を推進して来た広島県尾道市の校長陰山英男の考え方と共鳴し、素読の効用を説き、かつ実践を続けて来た安達忠夫の発想とも共鳴した。川島の実験研究の重要性は大脳における「前頭前野」の働き方を証明したことである。音読や素読が「前頭前野」を活性化することを「脳の血流」の量の変化を調べることによって証明した。脳の「働きが良くなる」とは、神経繊維と神経細胞をつないでいる「シナプス」の数が圧倒的に増えることだという。換言すれば、神経細胞のネットワークが強化されることである。当然、「情報」は流れ易くなる(*4)。前頭前野は脳の働きの中枢をなす。川島の貢献は明確である。これまで頭を鍛えるといっても、どこをどうすればいいのか、何をどうすればいいのかが分からなかった。素読や音読の効果は実感していても、陰山も、安達も、学習方法の原理は経験則の範囲でしか語ることができなかった。図書館の棚を見ても学習方法論議、創造性開発論議は諸論百出である。教育方法学会の論文に大脳生理学が援用されたということは寡聞にして聞かない。川島理論は、教育方法に革命をもたらすであろう。

(*4) 川島隆太、5分間活脳法、大和書房、2004年、pp.22〜23


(2) 川島実験の証明領域

   (1)  速い音読
  川島は黙読と音読の効果を実験で検証した。黙読は前頭前野の働きを活発にはしない。これに対して「音読」は効果抜群であった。意味の無い文章を音読しても脳が働くことが分かった。最大の効果は「速い音読」の場合であることも分かった(*5)。
  更に川島は前頭前野の活性化は事後の脳の働きを高める「準備運動」の意味があることを実験で証明した。音読のあとでは、迷路テストも、符合合わせテストも、単語記憶テストも結果に明らかな改善が見られたのである(*6)。また、子ども達が多くの時間を費やしているコンピューターゲームは残念ながら前頭前野を鍛えないことも証明された(*7)。テレビも同じであった(*8)。一連の川島の実験研究は子どもの日常の暮らし方の抜本的改革を示唆している。

   (2)  能動と受動では脳の働きが異なる
  川島は「読み聞かせ」と「自分で読む」ことの脳の働きを比較する実験をしている。結果は「能動」と「受動」の差がはっきり出た。自分で読めば脳は大いに働く。読み聞かせでは脳は働くが前頭前野は働かない(*9)。結果は明白だが、理由は未だ分からない、と川島はいう。

   (3)  「創造力」、「抑制力」、「記憶力」、コミュニケーションの機能」の向上
  教育学における経験則と観念の混乱を川島は、脳の中の前頭前野の働きを見ることによって整然と整理したのである。川島の実験研究によって、「創造力」も、「抑制力」も、「記憶力」も、「コミュニケーションの機能」も前頭前野が司っていることが分かった。逆に、テレビやコンピューターゲームは前頭前野を活性化しない。マンガも、運動も貢献は微少である。カギは体験型の「型」の学習にあることが分かった。音読や計算ドリルのような学習方法が痴呆の進行を防止し、更には改善にまで至ることが証明された(*10)。川島の実験はピアノの初期練習が前頭前野を活性化することを証明した(*11)。指を使ったあそびも同じ効果があることがわかった(*12)。作法や礼儀の表現など「行動の型」を学ぶことが前頭前野の働きを活性化するか、否かはいまだ証明されていない。実験が待たれる分野である。
  これらの実験は第3者による追試が必要であるが、川島理論は教育のあり方を一変させることになるであろう。

(*5)川島隆太、脳を育て、夢をかなえる、pp.62〜67
(*6)同上pp.100〜102
(*7)同上pp.116〜117
(*8)川島隆太、5分間活脳法、p.61
(*9)川島隆太、5分間活脳法、p.152〜153
(*10)川島隆太、山崎律美、痴呆に挑む、くもん出版、2004年、p.35
(*11)川島隆太、脳を育て、夢をかなえる、pp.94〜95
(*12)同上p.124

 

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