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(第47回生涯学習フォーラム 参加論文)

異年齢少年の活動・合宿・キャンプの目的と方法
−「学んでから活動する」から「活動の中で学ぶ」へ−
 

平成16年7月19日(土)

福岡県立社会教育総合センター

三浦清一郎

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1  現代の「寺子屋」−社会生活の予行演習

   想定している現代の「寺子屋」活動は通常の子ども会活動に似ている。小学校の学年制を反映しているので1年生から6年生までの混合編成である。1年生と6年生の体力差、知力差、経験・体験の差は極めて大きい。子ども会と同じく指導者は一般人である。指導上の専門的トレーニングは受けていない。したがって、個別の活動の指導経験はもとより、合宿、キャンプの知識・技能・経験は必ずしも有していない。さらに教科教育/知育を主流とする学校教育とは子どものグループ編成の方法が根本的に異なっている。学校が同年齢集団の編成であるのに比して、寺子屋も子ども会もその基本は異年齢の集団編成である。異年齢集団の活動には体系的、連続的な知育のカリキュラムは適用できない。学校のような専門家も不在であり、特定レベルに合わせた教科書・指導書もない。したがって、指導の目的も、方法も、成果も個々の子どもと指導者の力量によって制約される。しかし、このような状況こそが社会生活の実態にもっとも近い。お互いに協力し、お互いに助け合わないと活動は成立しない。結果的に、そこで行われる活動は社会生活の「予行演習」になる。子どもにとって異年齢集団体験の重要性はそこにある。


2   「教育力」の構成条件
   学校でカリキュラムが最も重要であるように、異年齢集団の活動にもそのプログラムが最も重要である。近年の子ども会活動や「学童保育」の発想には異年齢の特性を考慮した「活動メニュー」が欠落している。日本社会には、「老人力」、「市民力」、「社会力」などと具体的な中身の分からない「○○力」という表現が流行している。「家庭の教育力」や「地域の教育力」もその一つである。繰り返して論じてきたが、少なくとも現場主義の教育行政はこのような抽象概念に頼って現状の分析をするのは止めるべきである。教育力が足りないという時、何が足りないのか?足りないものを具体的に取出して論ずるべきである。教育力の要素を大別すると、「教育環境」と「学習プログラム」になる。従来は、筆者も、教育環境が「全体」で、そこから生み出される学習プログラムが「部分」であると考えて来た。しかし、具体的にものを考えようとすれば、「全体」と「部分」は連続している。連続している関係の発想は逆転が可能である。教育環境があって教育プログラムが生み出されるのか、あるいはその逆なのかは簡単には決められない。
   いかなる教育環境も、存在する学習プログラムの影響を受ける。学習プログラムの反復は、教育環境を醸成する。プログラムに視点を置けば教育環境はその結果である。「学習プログラム」が出発点であり、「環境」も、「風土」も、「人間関係」も、具体的な学習プログラムの実施過程で生み出された結果である。もちろん、ひとたび出来上った教育環境は、それを土台にして次なる新しい学習プログラムを生み出すから、一度学習環境が醸成されると、学習環境が「親」で、学習プログラムが「子ども」になるような関係が生じる。しかし、両者の関係は、双方向である。子ども次第で親が変わることはいくらでもあり得る。「プログラム」のあり方が「教育環境」を変えるのである。
   また、「環境」と「プログラム」の間には「偶発性」と「計画性」の違いがある。教育プログラムは意図的であるが、教育環境や人間関係の中で発生する学習は偶発的である。既存の「教育環境」、「教育風土」、「人間関係」などから自然発生的に生じる学習はあくまでも偶然で、気紛れである。それゆえ、偶発的に行なわれる「学習」を、意図的、計画的に行なわれる教育行政の指標に含めるべきではない。教育行政はあくまでも学習者にとって何が必要で何が欠けているのかを具体的に考えれば良い。現実問題の対応策を論じる場合には、「教育環境」、「教育風土」、「人間関係」など、重要ではあるが、包括的で、漠然とした概念を教育力の構成要素からはずして考えるべきである。


3  「教育力」とは「教育プログラム」の総体
   環境が「プログラムの関数」であることに誤りがなければ、教育行政が問題とすべき「教育力」の概念は「教育プログラム」に限定すべきである。行政が配慮すべき対象から、偶発的、無意図的な学習機会を除外すれば、残るのは「教育プログラム」だからである。問題になるのは、プログラムの中身であり、指導者であり、指導者が用いる方法である。もちろん、プログラムの外側では様々な資金・資源が必要になるのはいうまでもない。すなわち、教育力とは、「計画的、意図的な学教育プログラム」の総体を意味する。すでに当然のこととして、誰も学校の教育力を問わないが、それは学校のカリキュラムとその実行能力とほぼ同義である。教育行政が論ずべき教育力とは「教育プログラム」の質と量であり、それを実行に移す力量の有無である。教育力とはプログラムの質と量の総体と同義である。このように定義すれば、学校についても、社会教育についても、家庭教育についてさえも、行政が問うべき内容と方法がハッキリと見えて来る。建て前のきれいごとをいくら並べても、「教育プログラム」が存在しないところに、「教育力」はない。もちろん、プログラムの実行能力の無いところにも「教育力」はない。また、現状のように、教育プログラムがあるにも関わらず、人々が、学校も、家庭も、地域の教育力も低いと言う時は、「プログラムの質・量」が貧しいということである。あるいはまた、「プログラム」に問題は無くても、その「実行力」が不十分であるいう結論になる。その時こそ方法論を吟味し、プログラムに関わる「人、もの、金、こと」を点検しなければならない。


4  異年齢集団の「教育プログラム」 −社会生活の「予行演習」とは何か?
   (1)  異質集団への適応
   異年齢集団は同時に異質集団である。1年生と6年生とではあらゆる面で異なる。様々に異なった少年達が同一種類の活動を行う時、当然様々なギャップが生じ、通常、同一歩調、同一レベルの行動は困難である。したがって、異質集団への適応とは、「資質・能力・経験の異なる子ども達がその違いを乗り越えて共同活動ができること」である。異年齢集団の子どもの活動が社会生活の予行演習になるのは、集団構成員の資質が大きく異なっているからである。社会はまさに異年齢はもとよりあらゆる面において異質の人々によって構成される集団である。様々な「違い」があるにも関わらず共同生活ができるのは、人々がその「違い」を相補うからである。子どもも同じである。将来の社会生活への適応力を付けるためには、子ども達はまずそれぞれの「異質性」を実感し、体得しなければならない。上級生のできることでも下級生はできない。上級生はやったことがあっても下級生はやったことが無い。指導がすぐれていれば、異質性は共存の努力に変わる。上級生は手加減し、下級生は上級生をモデルとして背伸びする。上級生は下級生以上に働き、下級生は自分の力量を越えて働く。いたわりも、寛容も、尊敬も、憧れも、面倒見の良さも、モデリング熱意も、こうしたプロセスから生まれる。もちろん、いいことばかりが生まれるわけではない。威嚇も、苛めも、恐怖も、不安も、過剰な支配も、過剰な依存も生まれる。それらのバランスを取るのが指導者の役割である。

   (2)  「いたわり」と「あこがれ」?「手加減」と「背伸び」
   異年齢集団の「異質性」は行動を律する心身の力量の相違に最も顕著にあらわれる。あらゆる活動において、上級生の力は明らかである。下級生の力不足も明らかである。そこから上級生は「いたわり」や「手加減」を学ぶ機会を見い出す。力量の違いが明らかな時、指導者の方向付けで上級生は自分の位置も、役割も容易に理解することができる。特に、下級生が憧れと尊敬を示して彼等に頼った時、上級生は子どもながらも小さな保護者・指導者に変身する。それゆえ、異年齢集団においては意図的、目的的に上級生による下級生の指導や世話をプログラム化することが重要である。プログラムの中で上級生は己が果たすべき「役割演技」の舞台を獲得するのである。
   下級生は基本的に上級生の逆のプログラムが必要になる。指導者は下級生を前に上級生の実力を例示し、説明し、諸活動において彼等が「手本」として憧れ、モデルとして「背伸びして」学ぶべきことを促さねばならない。子ども会などにいう「ジュニア・リーダー」の感覚と姿勢は、いわゆる教室の机上で行う「ジュニア・リーダー研修会」では育成できない。上級生がリーダーとなるのは、唯一、自分自身の指導体験、リーダー体験を通してのことである。異年齢集団が共通の活動を行う時、上級生は力量において劣っている下級生から頼られ、下級生の面倒を見なければならない。心情的には下級生の「憧れ」が上級生に伝わる。上級生が弱者に対する「いたわり」と惻隠の情を感じた時、初めて「保護者」の体験を味わう。下級生がいて上級生がいて、指導とモデリング(模倣)のプログラムが与えられた時、上級生の「いたわり」と下級生の「憧れ」が組み合わさって、初めて上級生は「ジュニア・リーダー」になるのである。

  (3)  OJT (On The Job Training) の原理
   学校教育の児童・生徒には原則として「現場」はない。彼らが未だ子どもだからである。加えて、学校は閉鎖的な環境である。したがって、論理が先行し、概念が先行し、机上の知識が先行する。学校の「頭でっかち」はある程度やむを得ない。
   しかし、生涯学習の場合は現場を創造しながら学ぶことができる。企業が行うOJTの原理と同じである。OJTの特徴は、仕事の中で学ぶことにある。したがって、学ぶ者に学ぶ動機が強烈である。学ぶ者は、学ばねばならない具体的な課題に直面している。現場で学んだことはすぐに応用して学習や体得結果の検証が可能である。異年齢集団において子どもが学ぶということも原理はOJTと同じである。集団活動の中で、学ばなければならない「状況を作り」、学ぶことの「必要を感じさせ」、学んだことの「応用・検証を行う」ことができる。具体的な課題を示しながら、強烈な動機付けも可能になる。
   にもかかわらず、従来の生涯学習/生涯学習に関わる研修は学校教育の影響を受けて、学ぶ論理や必要が逆立ちしている。ほとんどの研修プログラムは「現場」を持っていない。順序的に、プログラムは、「学んでから」「行動に移る」ように設計されている。「高齢者大学」を受講してその成果を社会に還元しようという発想がその典型である。「ジュニア・リーダー」の養成コースを終わってから後輩の指導をしよう、という発想も同じである。以下、ボランティアの養成コースにしても、社会教育職員の研修にしても、研修があって、実践があるはずだという想定の下に構想されている。しかし、現実には、研修が終わって何人が学んだことを実践に移すであろうか?学習者は実践の必要動機を有していないのである。
   高齢者大学受講者の社会還元はほぼゼロに近いであろう。ジュニア・リーダーの研修が機能していないことも明らかであろう。ボランティア研修でボランティアが盛んになればこんな簡単なことはないが、そのようなことはあった試しがない。行政研修の多くは金とエネルギーと時間の無駄に過ぎない。
表現が上手にできるようになるためには表現の実践の中でその原理を体得しなければならない。司会が上手になるためには司会の現場で原理とコツを会得しなければならない。実践に関わることはすべて同じである。教育行政においても、大学の研究者が理屈だけこねて、実務ができないのは「やったことがない」からであり、実務を見下して「やる意志がない」からである。実践は研究を進化させる。実務は原理の検証を必要とする。実務現場と研究室の相互乗り入れが不可欠なのはそのためである。現場との交流が多いアメリカなどに比して、日本の大学の教育研究システムが成果を上げられないのは、終身雇用制度に守られて、研究者が現場との職業上の相互乗り入れを行っていないからである。
   従来の学校教育型の研修には典型的に学ぶ動機が不在である。児童も生徒も、学ばねばならない具体的な課題に直面していない。研修生も同様である。問題解決能力は実践の中で身に付けるところが圧倒的に多いのに、多くの研修は具体的な課題意識を持っていない。「やったことのないことはできない」というのは「体得」という学び方の原則である。概念や知識を主体とする「脳の学習」だけでは実践力は身に付かない。学校教育の本質的欠陥がここにあり、その悪影響が生涯学習現場の研修構想にまで及んでいる。「畳の上の水練」で泳げるようにはならないのである。
   知的なトレーニングを重ねても、本人は実践上の「火事場」の緊張感を有してはいない。仕事の締切りの切迫感にも当面していない。机上の訓練や学習が効果を発揮しないのはそのためである。上級生も、下級生も、やったことのないことはできない。練習を積んでいないことは上手にはできない。何よりも課題に直面していなければ何をどのように学ぶべきかが分るはずはない。異年齢集団の活動は、上級生に力の足りない下級生への「いたわり」の必要をつきつける。逆に、下級生には、おのれの力不足と限界を付きつける。そこから力量においてすぐれている上級生への憧れも、学ぶ意欲も、課題意識も生まれてくる。異年齢集団における少年教育は子どものOJTなのである。


  (4)  年齢混合の班別編成の重要性
   異年齢集団における具体的な活動においては、上級生がいて下級生がいる。年齢の違いは発達段階の違いである。発達段階の違いは当然、体力、知力その他諸々の子どもの能力の違いとなって現れる。能力の違い、発達段階の違いこそが異年齢集団の最大の特徴である。それゆえ、寺子屋や子ども会を年齢別、学年別に編成すること程もったいないことはない。異年齢の特性を生かした活動こそが社会生活の「予行演習」を意味するからである。寺子屋も、子ども会も、グループ編成にあたっては、上級生と下級生を一定の人数で組み合わせることが重要である。グループのまとまり、グループ内のコミュニケーションの密度、課題遂行能力を考えれば、班編成は6?7名ぐらいが望ましい。活動の目的、内容や方法の特性を考慮して、大きなグループや小さなグループ、または固定的なグループや臨時的なグループなど弾力的に運用すればいい。しかし、基本となる班別編成は子どものネットワークを形成する基本であるから固定することが望ましい。夙に、社会学者が明らかにしたように、「第一次集団」の強固な心情的つながりは擬似家族のような連帯と共感を育むことができるからである。


  (5)   体験プログラムの領域
   教室の学習に教科の領域があるように、子ども集団の活動には実現すべき目的にそった活動の領域がある。読み書きを学ぶためには、「国語」が必要であり、計算力の習得には「算数」が必要である。「体得」の場合も原則は同じである。協力の態度を学ぶためには、「協力体験」が必要である。耐性や体力の向上のためには困難な課題に挑戦する「困難体験」が必要である。自発性のトレーニングには自分で企画し、自分で執行し、課題を達成する体験が必要である。
   異年齢集団は知的/体力的発達段階が大いに異なる。それゆえ、知識や概念や関係を学ぶには適していない。学校教育が学年制を採用し、その上、「習熟度別学習」を導入するのは心身のレベルが異なった学習者に「脳」を中心とした「学習」を行うのはほとんど不可能だからである。体験プログラムの領域は活動の目的、体得すべき目標によって決定する。学ぶべきことは知的学習に限定しない。そこでは異質との付き合い方を体得するのである。どこに「いたわり」の舞台を設定するか、どこに上級生の指導を設定するか?当初の企画が重要になる所以である。


5  指導の予行演習
   上級生といえどもやったことのないことはできない。練習を積まなければ上手にはできない。活動の中に広く上級生による指導を導入しようとすれば、下級生を指導する前に上級生自身の予行演習が必要になる。それは指導力の向上のためはもとより上級生の安心と自信のためでもある。これに関しては、福岡県庄内町の生活体験学校が異年齢の通学合宿を導入した時の工夫が参考になる。
原理は上級生による同一プログラムの反復練習である。月曜日から水曜日までは上級生が合宿し、木曜日以降に計画している下級生を交えた時のプログラムと同じことを実施する。食事のメニューもくり返しになる。月曜日にカレーライスを作ったら下級生を迎えた木曜日もカレーライスを繰り返す。火曜日が炒飯であったら、金曜日も炒飯にする。炊事に限らず、一週間の前半と後半で、上級生は同じことを2回くり返すことになる。前にやったことのあることには上級生も自信を持つ。腕前も上がる。それが下級生の憧れや信頼に繋がるのである。


6  プログラムの精選 
   何のためのプログラムか?活動領域は目指すべき教育目的によって決定する。子ども達が日常的に当面している課題によって決定する。したがって、子どもの現状分析が大事である。現状の診断を間違えば当然処方箋を間違える。異年齢集団の活動の組織化は少年の危機への対応だからである。
関係者にとって現代の子どもを取り巻く具体的な危機が分からないわけではない。例えば、夏休みや学校週5日制で生じた自由時間である。自由時間の増加はその使い方次第で充実にも転落にもつながる。しかし、現状では、その対応策も準備もまったく不十分である。
   また、例えば、「体力」や「耐性」の不足である。この二つは指導の前提である。トレーニングの基本条件が整っていない時、ほとんどの分野で子どもの指導はできない。現状は、行政が提起している「生きる力」の定義が抽象的で、曖昧であるため、関係者の恣意的な解釈を許している。それゆえ、生活科も、総合的学習も、その目的、方法の設定が恣意的になりがちである。もちろん、地域の教育を担当する社会教育が、目的・方法の曖昧な「体験プログラム」を導入しただけでは「生きる力」の向上は達成できない。現行の教育は、学校教育、社会教育ともに対象となる子どもの指導条件が整っていない上に、「生きる力」を向上させるための目的も、方法も、論理的な分析が不十分なことが多い。それゆえ、公民館や学校が主観的に一生懸命やっただけでは成果は上がらない。


7  子ども達の日常 ーテレビと塾とコンピューターゲームと学校
   子どもの体験が不足しているのも、指導が難しいのも、子どもの日常に問題の根源がある。大方の研究報告を読めば、子どもの日常を構成しているものは、テレビと塾とゲームと学校であろう。子どものスケジュールの中に家族との同行はあまり出て来ない。友だちとの同行もあまり出て来ない。現代の子どもは極めて受動的、社会的には閉鎖的なのである。
   表記の見出しは、子どもの日常を構成する要素の配列である。配列にはある程度の順序性を意識している。子どもにとっての重要度の順である。子どもによってはゲームとテレビの順序は入れ代わるのかも知れないが、それぞれが日常を構成する4大要素の一つである事は間違いあるまい。塾と学校とテレビは子どもの日常となって久しい。テレビも、ゲームも、労働や学業の努力から解放される娯楽として登場した。たまの映画や祭の縁日に出かけて行くように「たのしみ」であった。大人にとっても、子どもにとっても、日常から解放される非日常のプログラムとして出発したのである。情報化時代とは、日常の中にかつては非日常の代表であったメディアの娯楽プログラムを定着させた時代なのである。少年達の日常を構成する要素は子どもを人間の自然性から隔離してしまう。少なくともこれまでの人間の「自然」は能動的で、集団的で、自発的であった。異年齢集団による活動の目的は、能動性、集団制、自発性の獲得である。「異質性」への適応も、異年齢の子どもを混合させた班別活動を通して創造する「いたわりと憧れ」の上下関係も、「体験」と「体得」を重視したプログラムもすべて上記の目的に直結している。「一人前」が営む社会生活は能動性、集団性、自発性がカギとなることは論を待たない。
 

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