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(第43回生涯学習フォーラム参加論文)

幼児の「未来体力」の育成 −運動・遊び環境の創造−

平成16年2月21日(土)

福岡県立社会教育総合センター

三浦清一郎

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1  生活者の体力

  専門的に論じようとすればするほど「体力」概念は細分化される。細分化し過ぎれば日常の役には立たない。そこで自己流に定義して問題の整理を始める。自分の日常における「体力」とは、「生活上の必要に応えうる身体能力」である。基準を「生活遂行能力」に置くので「生活体力」と呼んでもいい。「生活遂行能力」という以上、心身の機能の総合であることは必然だが分析では便宜的に「身体能力」に限定しておく。

  わが生活に必要となる身体能力は、研究時の集中力であり、持久力である。講演に出かける時は、講演時の肉体の基本条件である。前後の移動、前後の人間関係はその時々によって異なる。しかし、通常の講演は、大抵、1時間30分は立ちっぱなしである。座ったら講演に気合いが入らない。大声で聴衆に向かって研究の成果を訴える。居眠りが見えれば更に声を張り上げて、舞台や教室を歩き廻る。新しいテーマに対しては、慣れていない分だけ、集中的な事前準備が要求される。初めての場所では総合的な「火事場力」も要求される。緊張と迫力も必要である。。要は体力に限らず、行動耐性や欲求不満耐性のレベルが問われる。姿勢を正して聴衆と対峙できなければ、講演は失敗に終わる。声が届かなければ講演にはならない。緊張や迫力が持続出来なくても講演はしくじる。

  その点で日々の水泳も、山歩きも大いに役立っている。水泳は肺活量や持続力を向上させた。山歩きも足腰の鍛錬には大いに効果があった。筆者の山歩きは、小犬を連れた散歩だから敏捷性も増した。時には、小犬に導かれて道なき道を駈け登ることもあるからである。駈けることも、立っていることも昔ほど苦にならなくなったのは体力づくりの賜物であろう。

   当然講演者が講演者として通用するためには、動きも話し方も溌溂としていなければならない。腹の出たスタイルは隠さなければならない。現実に熟年太りは隠しようもないが、印象のダメージを最小限に留めたいというのが運動の努力目標である。テレビや雑誌が語るように、人の前に立つものはスポーツマンのように溌溂としていることが要求される。常に映像メディアに曝される現代の政治家も、スターも、テレビ人も、評論家も活力とスタイルを要求される。講演者も人びとの前に立つ職業の端くれである。腹が出て、もたもた歩いているのは失格である。活力と溌溂さが失われた時、人の前には立てない。映像の時代、視角社会では、演技者の”見てくれ”が重要なのである。歳を取れば取ったで、一層、年より若く演じなければならない。「まだまだやれる」所を見せなければ次の「座敷」はかからない。この点で我が水泳や山歩きの程度のトレーニングでは到底不足だが、筆者の体力の現状では仕方がない。幼児の体力づくりも考え方は同じであろう。彼らを鍛えるためには彼らの未来を想定しなければならない。発達上の課題を想定し、生活の具体的な目標を想定して、体力向上の中身と方法を考えるべきであろう。

2  幼児の鍛錬は「麦踏み」

  幼児の体力を鍛えると言うことは早春の麦踏みに似ている。麦踏みの目的は「徒長」を押さえ、「根張り」をよくすることである(広辞苑)。「徒長」を押さえるとは麦の葉茎の野方図な成長を抑制し、根が地中にしっかりと広がるよう上から敢えて押さえ付けるように踏むことである。スポーツマンが練習で様々な身体器官を活動させるように、人間の心身の機能の向上には使用上の「負荷」が不可欠である。もちろん、「負荷」が大きすぎれば感覚体は破損する危険がある。「麦踏み」も同じであろう。麦踏みに限度があるように、トレーニングに「さじ加減」が必要なことは言うまでもない。しかし、感覚体の機能は使わなければ発達しない。楽をして「負荷」が足りなければ機能は衰退する。感覚体の不思議である。もちろん、感覚体は心身の両面にまたがっている。「体力」概念が心身の両面に渡るのはそのためである。

  感覚体への「負荷」とは練習やトレーニングの意味である。幼児であるから遊びもまたトレーニングを兼ねている。楽しいトレーニングなしに幼児の感覚体は発達しない。「麦踏み」は成長期の麦の「負荷」を意味したはずである。発達のスピードが著しい幼児期にも原理的に適切な「負荷」の発想が必要になる。幼児期の鍛錬原理は健全な発達を促すためである。根張りを促す「麦踏み」に似ているのである。幼児もまた「徒長」を押さえ、心身の感覚器官がしっかりと発達するよう一定のトレーニングが不可欠である。植物の場合、「徒長枝」は軟弱で結実しない。農作業では「徒長枝」は通常取り除くのである。しかし、幼児体力の定義は簡単ではない。目的とする体力は幼児が獲得すべき基本動作に「翻訳」されなければならない。それゆえ、幼児を鍛える実践は獲得すべき基本動作を含んだ遊びと運動環境の整備から始めるべきである。

3  未来体力と必要体力

  健康とは「身体的、精神的ならびに社会的に完全に良好な状態であって、たんに疾病や虚弱でないということだけではない」(WHO)。当然、健康は、日々の生活への良好な適応を意味する。換言すれば、健康は、人間の外的環境、内的環境への適応力の総体であろう。

幼児は発達途上である。幼児は、いまだ全体的に社会生活を順調に営むことのできる状態にはない。成人とは異なりまだ社会生活は始まっていない。それゆえ、生活者の体力は未来の課題である。幼児の体力向上は、心身の健全な発達と発達を促す準備を意味する。体力向上の中心は「あそびと運動」である。生活者の体力も、幼児の体力も人生の「必要体力」であることに変わりはない。「必要体力」は子どもの「未来の体力」の基になる。生涯学習は市民の日々の課題を「必要課題(学習必要)」と「要求課題(学習要求)」に分類してきた。「必要課題」とは市民が欲すると否とに関わらず、その時代を生きるために身につけていなければならない知識や技術を意味する。これに対し、「要求課題」とは、人びとの欲する活動に関わる知識や技術である。このような発想に従えば、体力についても「必要体力」と「要求体力」に分類することが可能である。日常あるいは近未来において必要な体力は、生涯スポーツの必要課題と言っていいだろう。幼児の「必要体力」は身体諸器官の健全な発達を促すための「必要」である。その意味で「必要課題」はほぼ「生活課題」に一致し、「必要体力」は「生活体力」に一致する。子どもの体力づくりは、将来の生活を見越した「未来体力」、将来の「生活体力」という概念が大事である。運動生理学のいう「心身の予備能力」と言ってもいい。問題は何を想定して「予備」と言うか、である。子どもにも文明社会の恩恵は及んでいる。機械化、自動化、電化の影響は甚大である。現代、個々の暮らしに必要な体力は大したものではない。それゆえ、現実の生活実態は幼児の体力を鍛える前提にはならない。「予備能力」という際の「予備」の目的は発達の原点に立ち返って想定しなければならない。

「体力」の定義は様々である。多すぎて整理すら難しいので、常識に従って判断するしかない。常識的に「体力」とは「生活上の必要に応えうる身体能力」である。多くの人が、体力概念は精神的能力を含んでいることを指摘するが、幼児の場合こそ、肉体と精神は分離できない。広義の「体力」は「行動耐性」とほぼ同義であろう。行動する「身体能力」と行動を持続する「耐性」の結合した能力である。

4  「体力」概念の混乱

   スポーツ医学や運動生理学の参考書を読んでみると、いわゆる「体力」に関するものだけでも、実に様々な概念が登場する。驚くべき数である。一つ一つの概念について説明をはじめたら事典や参考書を延々と丸写しするしかない。しかもこれらの概念は一つ一つが、研究者の領域や専門に応じて別々に論じられていることが多い。明らかに研究分業が袋小路に入り込んでいるのである。それゆえ、スポーツ生理学などの参考書を読んでも、体力と健康の全体を俯瞰する地図は極めて見えにくい。

   体力関係概念の氾濫は、例えば、以下のようなものである。

   「心身の予備能力」

   「生活活動能力(ADL:Activities  of  Daily  Living)」

   「生活体力」

   「体力の潜在能力」

   「運動耐容能」

   「至適運動強度」

   「トレーナビリティ(運動効果の可能性)」   

   「行動体力」  

   「防衛体力」

   「調整力」

   「筋力」

   「筋肉、靱帯、腱の『結合組織』」およびその主成分である「線維芽細胞」

   「交絡因子(運動結果の多様な効果と関連性)」

などなどである。

   体力や健康に関する概念がかくも複雑で、多様であるということはとりもなおさず、理論的な整合性や研究の成果が確定していないということを示している。

5  手探りの体力づくり

  裸保育で有名な保育所がある。はだしが売りの保育所もある。乾布摩擦で有名な所もある。「自然が僕らの保育園」というキャッチで保育をしているところもある。体力づくり、身体づくりは総体としては子どもの発達を促すプラスをもたらすであろう。しかし、幼児の身体づくりとは何か、は必ずしも明確ではない。鍛える保育園の理論的根拠も明確ではない。どう考えてもそれぞれの保育所がカリキュラムに位置づけた「体力」の内容と「体力づくり」の定義を明確にした上で教育・保育実践に関わっているとは思えない。だとすれば、幼児の体力づくりに「危険」はないのか?「効果」の測定基準は何か?鍛えた子どもと鍛えなかった子どもの将来の違いは何を想定しているのか?体力は大切であるがどんな体力が大事なのか?身体づくりは大切だが、どんな身体を作ればいいのかは必ずしも説明はできていないのである。

6  「体力概念」の大局的分類

   とにかく様々な概念があり過ぎて整理が難しいが、体力は「攻める体力」と「守る体力」に二分することは大方の研究者で一致している。それが「行動体力」と「防衛体力」である。「行動体力」は、さらに二分され、サイバネティックス系(調整力−タイミング、バランス、柔軟性)とエネルギー系(筋力、スピード、パワー、持久力)に分かれる(*1)。また、「行動体力」は必要とするエネルギーの量によって3段階に分類される。幼児にとっても、熟年にとってもこの知識は重要である。

   「行動的体力」の三段階とはエネルギーの消費速度によって、「非乳酸性能力」(ハイパワー)、「乳酸性能力」(ミドルパワー)、「有酸素性能力」(ローパワー)である。

   さらに、「防衛体力」には細菌の侵入にそなえる「免疫」、温度の変化に対応する「恒常性」、機械的な衝撃に耐える「強靱性」の三要素があるという(*2)。当然、幼児期・少年期は準備過程であり、熟年期は維持・存続の過程である。ハイ・パワーやミドル・パワーの運動は幼老両者にとって、危険を伴う。両者の身体的機能は変化の過程にあるからである。

 子どもの発達は身体の完成前に神経系の発達が先行すると言われている。それゆえ、幼児期は「調整力」が発達する。「調整力」は神経系が司るからである。調整力の基本的技能は「走る」、「投げる」、「跳ぶ」など「動くことを楽しむ」ことに象徴される。

  神経系の発達は知識や体験に対して敏感な反応をもたらす。なかでも子どもの遊びは神経系の発達への最大の刺戟である。子どもが活発に動き、遊びに興じるのは面白いからである。結果的に、幼児期の遊びと運動は発達の基礎を築き、子どもの生涯に渡る活動性と大いに関わってくる。

(*1)  谷本満枝、体力・運動能力・技能とは、高木、荒木編著幼児期の運動あそび、不昧堂出版, 1999年、p.56

(*2)   田畑泉、中高年者の体力・体組成の特性、田島、武藤、佐野編、中高年のスポーツ医学、南江堂、1997、P. 11

 

7  獲得すべき「未来体力」

  自分の身体を自由に動かすためには様々な動作が必要である。幼児に限らないが、身体をコントロールするには、運動神経を発達させ、筋肉や関節を鍛え、それらの働きを維持する内蔵器官を丈夫にしなければならない。

  正木 健雄は子どもの動作を四種類に分類している。(*3)

第一は、平衡維持する動作、第二は、身体を動かす動作、第三は、他のものを動かす動作、第四は、動いているものをとめる動作である。

自分の身体を自由に動かすためには様々な動作が必要である。運動神経を発達させ、筋肉や関節を鍛え、それらの働きを維持する内蔵器官を丈夫にしなければならない。

  体育科学センターの定義は更に詳細である(*4)。

  三つ子の魂が百までの人生を決定するように、幼児期に獲得する基本動作やからだ感覚は人間の一生に渡って運動の基本を決定することになる。問題は幼児が獲得する基本動作とはなにか、である。それは幼児の体力を具体的に提示することである。体育科学センターの定義では3分野84種類の

基本的な動作に分類している。3分野とは第1が平衡系(Stability)−姿勢、第2が移動系(Locomotion)、−上下動作、水平動作、回転動作、第3が操作系(manipulation)−荷重動作、脱荷重動作、捕足動作、攻撃的動作である。

「立つ」、「しゃがむ」、「ぶら下がる」などは平衡系である。「潜る」、「のぼる」、「あるく」、「かわす」などは移動系である。「かつぐ」、「おろす」「つかむ」、「たたく」などは操作系である。

  もちろん、それぞれの動作の向上には、運動目的に合った正しいプログラムが必要であることは論を待たない。幼児期の伝統的な遊びはその代表的なものであった。遊びは面白い。体力でも、創造性でも、心理的開放感の点でも、社会性でも、遊びの効用は大きい。

それゆえであろう。「幼児期は遊びが大切である」という保護者の常識は崩れていない。しかし、養育のプロセスで遊びの実践は出来ていない。3歳児の3割が習い事をしているという調査結果もある。結果的に、遊べない子どもも増大している。

   豊かな社会の、子どもの日常の利便性を考慮すれば、もはや「生活が鍛える」という機能は期待できない。子どもは歩かない。子どもは働かない。子どもは遊ばない。子どもは肉体的に楽をしている。こうした状況に対応しようとすれば、意図的、目的的に全身で力を出し、正木や体育科学センターの言う基本動作をフル稼動させる遊びや運動プログラムを創造しなければならない。それゆえ、高木信良は解決は「運動遊び」の中にあるとしている(*5)。運動遊びでは心身の機能は融合している。そのポイントは以下の通りである。

運動遊びのポイント

1  身体活動の充実感と満足が得られる

2  運動能力の向上身体諸機能の調和的発達を図ることができる

3  自立心、自信、気力、忍耐力、創造力が育つ

4  協力、きまり、役割の体験を積むことができる

5  健康、安全の習慣、態度を養成できる

(*3)  正木健雄、からだづくり・心づくり、農山漁村文化協会、2002年、p.115

(*4)  荒木タミ子、「幼児期と運動遊び」、高木、荒木編著幼児期の運動あそび、不昧堂出版, 1999年、p.25

(*5)  高木信良、幼児体育の指導目標と指導法、高木、荒木編著幼児期の運動あそび、不昧堂出版, 1999年、pp.76ー77

 

8  少年の日常−幼児の日常

  少年の日常は様々な調査で良く知られている。しかし、幼児の日常は必ずしも知られてはいない。手がかりは少年の日常である。少年期の前提は幼児期の日常だからである。多くの調査結果が語るように、子どもの日常を構成しているものは、テレビと塾とゲームと学校である。幼児期の日常も似たような雰囲気の中にあることは想像に難くない。子どものスケジュールの中に能動的な遊びは出て来ない。家族との同行もあまり出て来ない。友だちとの同行もあまり出て来ない。社会参加の機会もない。子どもの数が少なくなった分だけ、「子宝の風土」の過保護はますます加速する。世話も、支持も、ふんだんな物品の授与も過剰になる。「お子さま」に対する「受容」の態度も増大するのは当然の帰結である。「子育ては子どもの目線で」というスローガンはいっこうに衰える気配はない。結果的に、子どもは軟弱化の一途を辿る。身体の不調を訴える相談事も極めて多い、という。「子どもは大丈夫か」、「生きる力は育っているか」という社会の心配はもっともなのである。

   心配の背景には子どもの生活の「受動性」があり、「過保護」がある。テレビやゲームの「擬似環境」がある。メディア環境に没入する時間が多くなれば、子ども達が自らの肉体や自然から遊離する危険が増すであろう。「子どもは大丈夫か」、という危機感の淵源はそこにある。子どもの自主性、主体性、積極性、能動性が重要であると言うのであれば、自覚のない「過保護」は危険である。子どもの時間消費の「受動性」も極めて危険である。自主性も、主体性も、積極性も、能動性も、すべて自主的、主体的、積極的、能動的活動を通してしか「体得」することができないからである。同様に、己の肉体や感覚の向上も、自らの肉体、感覚を駆使して初めて可能になる。テレビやゲームの擬似環境に浸っていれば、汗も、苦労も、疲労も、痛みも、空腹も、筋肉の躍動も、風の心地よさも知る由もない。これらはすべて身体を通して実感する以外分かりようがないのである。まして、子どもが自然に接することなく、生活実態から自然条件が少なくなれば、子ども自身が「自然」の一部ではなくなってしまう。自然として生まれて来た子どもが自然から遠ざかり、自然の一部でなくなる時、人間に何がおこるのか?われわれはいまだ知らない。但し、人間の中の「自然力」とでも呼ぶべき、感覚機能も、体力も、気力も、欲求も、その多くも衰えるであろうことは疑いない。自然と人間社会の現実に触れて成長した能動的な「自然世代」と、その機会を失いつつある受動的な「不自然世代」が大きく異なるであろうことは想像に難くない。少年の無気力も、彼らの凶悪犯罪もどことなく「不自然世代」の成長の停滞を暗示していないか?

  教育学に照らせば、過保護と擬似環境がもたらす「受動的生活」は子どもの「体得」を減少させる。現在行なわれている「体験プログラム」の推奨ぐらいでは到底間に合わない。まず、子どもの運動不足が起る。人間関係の希薄化も起る。当然、ゲームやテレビ付けでは家の中に隠りがちになる。遊びからも、自然からも遠ざかれば、自発性や創意工夫も衰えるであろう。要するに、身体だけ「徒長」し、子どもの人間機能が「弱体化」する危険を予感させるのである。 

9  「体調不良」とはなにか?

  子どもの体力との関連で、身体のリズム障害についての解説を読むことになった。専門化は細分化を意味するのであろう。「体調不良」の概念が細かく、科学的に分析されるのに驚かされる。

  通常は「体調不良」と言い習わしていた現象を三池輝久は4つの概念に分類している(*6)。第一は「自律神経異常の症状」と呼ばれる。第二は「生体リズム異常」と呼ばれる。第三は「脳機能低下障害」である。第四は「エネルギー生産性低下」である。言われてみれば、時々自分の日常でも思い当たることは起る。

   今回のフォーラム論文は、子どもの体力に関する小論であるが、同じ人間の肉体についての分析であるから、熟年の自分と比較しても原理の上でそれほどの違いは生じないであろう。「生きる力」に老若の違いはないはずである。

  第一の「自律神経異常の症状」は「手のひらの汗」、「動悸」、「頭痛」、「吐き気」「耳鳴り」、「立ちくらみ」、「頻尿」などの現象に現れるという。

  第二の「生体リズム異常」は、「寝つきが悪い」、「途中で何回も目がさめる」、「一日中続く眠気」などをいう。

  第三の「脳機能低下障害」は「集中力の低下」、「イライラ」、「意欲の低下」、「健忘」などをいう。

  第四の「エネルギー生産性低下」は「持久力低下」、「強い疲労感」などに現れる。(*6)

   なるほど、とは思いながらも、機能の細分化にこだわれば、健康もまた「木を見て森を見ない」ということにならないのか?これほど詳細に分類しなければ健康の維持が出来ないのか?人間は「感覚体」の総合である。大人も子どもも局所的な部分品に分解してしまえば総合的存在としての人間を見失う、と自らの健康感覚は教えている。

  めったにないことではあるが、ちょっとしたはずみで無理をすれば、上記のことはすべて健康体の我身にも起る。これらは「病気」なのだと言われると、素人は返す言葉に窮するが、少なくとも自分にとっては、「体調不良」はまだ「病気」ではない。したがって、こんどは「病気」の定義を聞かなければならなくなる。恐らくは「不良の程度」の問題なのであろう。自分自身に起る体調不良の現象は、不摂生の「付け」であっても、病気ではない。翌日ゆっくり眠れば直る。仕事を放り出して気晴らしをすれば直る。対処方法はこれまでの人生の経験から大体分かっていることが大部分である。それゆえ、限度を越えた無理はしない。山歩きや水泳で心地よく身体を動かした後は食欲も、睡眠もすぐに元に戻る。集中力も、持久力も元へ戻る。従って、「元へ戻らない」体調不良を病気と言うのであろう。日常の不養生はついついやってしまう。頑張って無理もする。しかし、基礎体力があれば休養で元へ戻る。「抵抗力」があれば、病気までは行かない。調子が戻らないとすれば、もともとの基礎体力が余程低いか、あるいは基礎体力の限界を越えて無理をした結果であろう。前者は「抵抗力」が弱い、ということである。後者は「抵抗力」の限界を越えて無理をした、ということであろう。どちらも「体調不良」の原因であり、「病気」の原因になる。少なくとも、自らの健康バランスの感覚から言えば、上記のように細分化された分析は役に立たない。総体的に体力を理解しなければ、鍛えようもない。弱さはもともと本人の「抵抗力」が低いからである。体力がなければ頑張れない。鍛えていなければ、無理は出来ない。抵抗力がなければ、ちょっとの頑張りでへたりこむ。60年以上、人間をやってきた常識は、「原因」が問題なのではなく、「原因抵抗力」が問題なのである、と判断する。日々の「調子」は自分の基礎体力が鍵になるように、子どもの慢性的な体調不良は、子どもの総合的な体力が問題なのである。子どもを鍛えないで、原因を分析しても症状を細分化しても、効果的な対応にはならない。幼児の体力づくりが大事なのは「抵抗力」の向上が大事だからである。運動と遊びを抜きにして幼児の「未来体力」は形成できない。現状では理論が稀薄である。保護者と保育者の一段の学習が求められる所以である。

(*6) 武藤芳照、「よみがえれ風の子」(中央公論社)の紹介による。 三池輝久、「生体リズムと不登校」、学会出版センター、1999年

 

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