1 「いいこと」づくめのボランティア?
ある論者は、ボランティアは「世のため、人のため、自分のため」である、と断言する(*1)。そんなにいい事づくめなら子どもには強制してでもさせたらいい。また、別の論者は、ボランティアとは「共生、共育を前提とする社会の活動」である、と言う。「共生」と「共育」が可能になるのなら、これも現代っ子には不可欠であろう!(*2)一方、ボランティアの必修化、義務化、強制には根強い反対がある。反対論の根拠は、「自己犠牲」や、「強制」や、「苦痛」に対する反感である。「個 」が「全体」または「公共」の名のもとに特定の奉仕や貢献をするのは「自己犠牲」の匂いがして歓迎できない、という。まして、ボランティアの義務化は、そもそも「自主性」の原則に反する。「自己犠牲」も、「義務化」も「苦痛」の種になるだけで、結果的に逆効果をもたらす。それゆえ、「やりたいこと」は自分で探すのだ、という主張になる。しかし、子どもにやりたいことが自分で探せるか?責任ある態度で主体的に活動を継続できるか?「苦痛」がボランティアを止める理由なら、教科の学習も、社会規範の学習も「苦痛」だったら止めるのか?そもそも好きなことを好きなようにやれて、苦痛を全く伴わない意義ある社会的な活動が存在するのか?答は決して簡単ではない。青少年ボランティア論は混沌の中にあるのである。
(*1) 松兼 功、ボランティアしあおうよ、岩崎書店、1997、裏表紙
(*2) ほんの木編、初めてのボランティア、1993、p.2
2 「建て前」論の美辞麗句
(1) 少年の「主体性」−子どもの「自主性」
ボランティアの語源はラテン語で「自由」を意味する。それゆえ、根本の精神は「主体性」である。「自主性」と言ってもいい。ボランティアをするかしないかは、自分が決める。自分で選ぶ。当然自分の判断で活動を停止する。しかし、この世の事はそれほど明快ではない。まして、この理屈を「少年」のボランティアにそのまま適用できるほど事態は単純ではない。
大人の中にも「主体性のない者」は様々にいるのに、少年のボランティアが少年の「主体性・自主性」から出発できるはずはない。青少年ボランティアにおいては、「自主性」も「主体性」も軽々に前提には出来ない。それらを育てることこそ青少年教育の主要な目的の一つだからである。ボランティア論がその目的や効用について美辞麗句を並べるのは極めて危険である。
(2) 「社会性」・「連帯性」の促進
ボランティア活動によって人々が支え合えば社会性が育つという。その通りであろう。力を出し合えば連帯も深まるという。それもその通りであろう。しかし、「社会性」も「連帯性」も様々な活動の副産物である。活動はボランティア活動に限ったことではない。社会性も、連帯性もボランティア活動の”専売特許”であるかのように論じるのは誤解のもとである。あらゆる人間活動の副産物は人間交流の促進である。活動の方法如何で仲間の連帯も深まる。部活でも、アルバイトでも、野外キャンプでも同じことは達成できる。要は本人の心がけと指導の方法が鍵となる。ボランティア活動だけが社会性と連帯を深めるというように聞こえるのは時に欺瞞であり、美辞麗句のそしりを免れない。
(3) 社会的承認と本人の成長 −創造性、開拓性、先駆性の開発
青少年に限ったことではないがボランティアは人生に様々な実りをもたらす。ただし、指導や活動が理想的に展開すればの話である。
抽象的に列挙すれば、第一に行為に対する社会的認知を受ける。当然、本人も活動の意議を徐々に理解するであろう。人びとの評価や反応は、活動者に存在実感を与える。対人ボランティアにおいて効果は特に著しい。学校と家庭を往復する青少年の日常にそのような機会はなかなか存在しない。他者もいない、社会に対するサービスもしたことがないという少年の日常では、己の存在感や役割の意義を実感することは難しい。
第二に、活動を通して、訓練や学習や体得が促進される。ボランティア活動を通して、体験の幅が広がり、社会生活の基本を学び、未開発の能力や生来の能力を発揮する。
従って、第三に、本人の成長に結びつく。ボランティアは信頼されなければならない。時に、秘密も守らなければならない。時に、我慢することが必要となり、時に、正直であることが不可欠である。もちろん、聴くことは大切であり、相手に対する共感の能力も不可欠である。これらの体験は学校や家庭だけでは得られない。第四は、本人の満足を高める。他者の認知や感謝によって社会的認知の裏側は「満足」である。ボランティアとは本人の喜びと充足から始まるとはこのような側面を指しているのである。
ボランティアの「効用」はまだある。創造性、開拓性、先駆性の発揮である。そうした優れた能力が育まれる可能性は確かにある。しかし、これもまた、指導と活動の中身と方法次第である。創造性を発揮できるような状況や指導を前提として初めてその開発が可能である。少年のボランティアが自動的に創造性、開拓性、先駆性の開発に繋がるという意味ではない。創造性、開拓性、先駆性に関わりないボランティア活動も山ほどある。ボランティアを言葉で飾って、創造性「信仰」の一種にしてはならない。それほど素晴らしさづくめなら「チョイボラ」の挫折の説明はできないであろう。
(4) 無償性の幻想
ボランティア論の混沌は「無償性」の原則を巡って最も著しい。ボランティアの語源はラテン語の自由意志を意味するという。主体性の論議はそこから来ている。また、自由意志に基づく人々の行為は労働と区別され、活動に対する「対価」を受取らない。それが「無償性」の原則である。自由意志で社会的奉仕の活動に関わるボランティアは、当然、「労働の対価」は求めない。賃金や給与の「報償」を求めない。しかし、報償と必要経費は別のものである。「無償性」の原則は活動を「ただ」でやれ、という意味ではない。日本のボランティアが掛け声ばかりで広がらないのは、人びとに「タダ働き」をさせるからである。活動を支援する「費用弁償」の制度が不十分だからである。ボランティアを「ただ」と同列に論じた研究者や福祉関係者の責任は重い。
解説書の中には「お金を受取らないからこそ、自由な活動ができる」と説明してある。「見返り」を期待しないのがボランティアであるとも、言う。言葉だけを聞くと崇高に響くが、この種の発想は人間の活動に対する認識がいかにも甘い。「見返り」を期待しないといいながら、「V(ボランティア)切符」の制度が一方にある(*3)。「V切符」とは、一定時間のボランティアをすれば、いつか自分も、同じ時間のボランティアサービスを受けることができる、という仕組みである。ボランティアの交換制度は「見返り」の交換制度である。流行りの「エコマネー/地域通貨」の仕組みも「見返り」を原点としている。
金を受取らない「ただ」のサービスが自由を保証するという論理も甘い。「ただ」は自由にも繋がるであろうが、無責任にも繋がる。「ただ」だから気楽なんだ、という活動が責任をもって持続できるはずはない。サービスを受ける側の人の身になって考えてみればいい。この種の発想こそボランティア活動を停滞させてきた原因の一つである。自由は時に無責任、気侭の同意語である。また、「金をともなわないから精神的な喜びも大きい」というが、「タダ働き」が「精神的喜び」に繋がる保証はない。「タダ働き」が「苦痛」に繋がる可能性は大いにある。まして、活動をともにする有給のスタッフがいい加減な時、馬鹿馬鹿しくて「タダ働き」などやっていられるわけはない。
青少年のボランティアを考える時、「ボランティアただ論」の弊害はさらに明らかである。彼らに財力はない。ポケットマネーの範囲でやりなさい、ということであればほとんどの活動はたかが知れている。
「世のため、人のため」の活動に対する費用弁償は活動者に対する最小限の礼儀である。アメリカ社会がボランティアを「振興」させる目的で、ボランティア振興法(1990年)を成立させ、州政府が活動者に交通費や事務所経費などを支援するのは当然の配慮である。日本でも、「海外青年協力隊」や、日本青年奉仕協会(JYVA)の「ボランティア365」のプログラムにおいて、活動に参加する若者に対して、食費や住居費を支給しているのも同じ発想である。「費用弁償」は「無償性」の原則に反しない。労働の対価を受取った時初めて「有償」という。ボランティアが労働でない以上、「有償ボランティア」の概念は論理矛盾である。「有償」であればボランティアではない。「労働の対価」と「費用弁償」を区別する論理の整理が必要なのである。
東京都八王子市の「ヒューマンケア協会」はボランティアがお金を受取っているという。その理由は「サービスを提供する側と受ける側とが対等の関係にたてる」という考えである。「サービスを受ける側の気兼ねがなくなり」、合せて「提供する側の責任意識」が向上するという(*4)。当然であろう。人間の活動にエネルギー、時間、経費のかからないものはない。「ただより高いものはない」とは日本人の知恵である。
物心両面で余裕があり、費用弁償は全く必要無いという人は恵まれた自分の境遇を再確認すればいい。ボランティアの第一原則は「主体性」である。「費用弁償」を受取らない人は自分の判断で受取らなければいい。「費用弁償制」や、費用弁償を受取る人をとやかくいうことはない。
(*3) 総合学習に役立つボランティア−ボランティア入門、こどもくらぶ編、偕成社、2000、p.27
(*4) ボランティア・ワークショップ編、ボランティアブック、ブロンズ新社、1994、p.119
3 ボランティアは「安上がりな労働力」!?
ボランティア論の建て前はその「効用」に留まらない。ボランティアは「安上がりな労働力」ではない、という安易な認識も美辞麗句の一つである。本人に関する限り、ボランティア活動は確かに「労働」ではないだろう。それゆえ、「労働の対価」も要求しない。しかし、労働は「活動」の特殊形態である。労働も、ボランティア活動も社会的機能の遂行能力において、本質的な違いはない。ボランティアであろうと手伝いであろうと、社会的責任の遂行においては実質的な「労働力」として機能している。本人の気持ちやボランティアの建て前だけで「労働力」機能を否定することはできない。「労働力否定論」の説明は社会的役割遂行の現実を直視していない。
筆者も英会話指導のボランティアである。クラスは費用が「安い」。その「安さ」が多くの学習者を引き付けている。学習者のみなさんが正直にそうおっしゃる。この事実をひっくり返せば、筆者は安あがりの英語講師なのである。当然、多くの行政もそう考えている。多くの病院も、福祉施設もそう考えている。人の能力やエネルギーを経済学は総括的に「人的資本」と呼ぶ。同じ人的資本が「ただ」或いは「費用弁償」だけで活用できるとすれば、活用しない方がおかしい。高かろうが安かろうが、「人的資本」の中身に違いは無い。職業的講師として教えても、ボランティアで教えても、筆者の英会話指導能力に違いは無い。その意味でボランティアは安い「労働力」でもあるのである。大人は青少年に対するボランティアの勧めにあたって、口当たりのいい「立て前」や「美辞麗句」だけを並べてはならない。子どもは一般論でいえば、労働者ではない。しかし、子どもが子どもなりに役に立てば、その時点で立派な「労働力」になり得る。かつての「農繁期」はそうした子どもの労働力を当てにせざるを得なかった農業の時代の仕組みである。それが「田植えボランティア」や「森林ボランティア」に看板を架け替えたのである。「森林ボランティア」の背景には、ボランティアの「労働力」を抜きにして森は守れなくなった時代の背景があるのである。
4 ボランティア活動の「労働」化 −「介護」の社会化−福祉を「買う」時代
ボランティア活動は「労働」ではない。しかし、「草刈十字軍」や「森林ボランティア」が象徴するように、かつて労働で処理してきたことを、ボランティアの活動で処理するようになった。当然、その逆も起る。かつて、ボランティアが行なってきた福祉分野の奉仕やサービスの多くは、今やプロが担う「労働」になった。「介護」の社会化がそれである。福祉を買う時代が来たのである(*5)。ボランティア無償の看板も、ボランティア「非労働力」論の論理も高齢社会の変化には抗し切れない。
高齢化は介護の社会化を必然的に進める。高齢社会の介護は老老介護の現象一つを見ても、すでに家族・家庭の担当能力を越えている。当然、介護に関わる専門の人々を配置しなければならない。「有償ボランティア」(費用弁償を伴うという意味である。労働の対価を求めないボランティアに「有償」はない!)によって福祉を買う時代が来た、と書物は言う。費用弁償は当然であり、プロの職務責任が行き渡るまでの「過渡期」の現象である。高齢化が進展して、介護の社会化の時代が来たのである。職業としての介護が広く社会に認知され、「ヘルパー」という新語も生まれたのである。プロに労働の対価を支払うのは当然のことである。福祉には様々な活動場面がある。プロとボランティアの線引きは簡単ではないが、職業としての介護が成立したということは、すでに介護が「労働」になったということである。ボランティアが介護を担当してきた時代は変わったのである。福祉分野におけるボランティア「ただ」論も変わらざるを得ない。
(*5) M.マクレガー・ジェイムス/J.ジェランド・ケイタ−、小笠原慶彰訳、ボランティア・ガイドブック、1982年、pp.204-205
5 「お手伝い」の3類型−ボランティアの3類型
お手伝いには三つの類型がある。第一は、義務的貢献であり、役割の強制的分担である。現代っ子はいざ知らず、多くの先輩社会人はお手伝いによって社会の仕組みを垣間見たのである。お手伝いの中身はさまざまである。子どもの手伝いとは言え、事と次第によっては、家族生活の不可欠な役割の場合がある。不可欠である以上、その役割が果たされない時家族の生活に支障が出る。それゆえ、原則として、子どもの希望も、言い分も聞かない。不可欠の役割は義務として与えられる。手伝いは労働であり、参加は義務であった。生活が貧しい時代にはこの種の手伝いは様々に存在した。
第二の類型は、「教育的カリキュラム」としてのお手伝いである。お手伝いは、役割と責任の教育的分担である。結果的に、手伝いは教育活動となる。文明の豊かさの中では、子どもが家事を分担しなければ、日々の生活が成り立たないという事情はすでにない。しかし、親は、家族生活の成り立ちを教え、後の社会生活に備えて、共同と責任と役割分担を教えたい。そのために子どもに手伝いを課する。手伝いの背景には「隠れたカリキュラム」がある。手伝いの主目的は「労働」ではなく、「教育」である。この場合は状況が切羽詰まっていない分だけ、環境に強制力はない。それゆえ、親の指導力が試される。子どもに協力させるためには、知恵を絞らねばならない。当然、ある程度は子どもの希望や言い分を聞く。出来れば子ども自身が納得して責任や役割を分担することが望ましいからである。それがのちの自主性、積極性にも繋がる。しかし、子どもが関心も、同意も見せない時、強制から動機付けまで、親は様々な教育的指導を行なう。
第3は、「自発的活動」としてのお手伝いである。子ども自身の関心、好奇心、意欲、思いやり等を原点とする手伝いである。当然、すべてを子ども自身に任せる。周りは子どもの質問や助言の要請があった時だけ、必要な指導を与える。何よりも、子どもの個性、自主性、積極性を生かしたいからである。親は感謝し、子どもを褒め、喜んでみせる。強制とも、義務とも無縁である。
三つの類型のどの場合でも、子どもは家庭のお手伝いプロセスを経て、役割を取得し、責任の意識を学んで行く。共同生活の成り立ちに付いても理解する。主として手伝いは家の中、家庭生活の事であるが、同じ発想を社会生活に拡大すれば、青少年ボランティアの中身や方法と合い通じる。
お手伝いが辛かった子どももいる。手伝いで家族や親を理解した子どももいる。お手伝いが楽しくて、興味や関心を発掘した子どももいる。子どもに家庭の手伝いをさせる時、様々な意味とアプローチがあるように子どものボランティアにも様々な意味とアプローチがある。基本は3つの類型である。義務と、教育と、自発的関心である。
6 善意の徒労−「ゴミを捨てる人」と「ゴミを拾う人」の2極化−
筆者が毎日生涯スポーツを兼ねて近くの森に出かける。森の近くにクリーンキャンペーン道路がある。道ばたのゴミは毎日出るが、ボランティアによって毎日掃除される。掃除を引き受けていらっしゃるのはTさんである。お名前がキャンペーンの看板に書いてある。時々森への往復でビニール袋にゴミを拾い集めているバイクの人に出会う。恐らくは、Tさん御本人か、或いはその命を受けたTさんの部下の方であろう。しかし、毎日往復して分かることはゴミは一向になくならない。どんなに献身的にゴミを拾っても、ゴミ捨ては減らない。善意の行為を続けても、現在のやり方では山野海浜にゴミを捨てる日本人は減らない。その文化的背景は第3回フォーラム論文「日本社会における環境問題とパブリック概念の不在ーなぜ人は「みんなの海」にゴミを捨てるのかー」に書いたとおりである。「みんなの環境」を汚さない、というパブリックの概念が不在だからである。加えて、社会規範を守らせることに失敗した教育的理由もある。
今回の執筆にあたって幾つかの参考書を読んだが、大方のボランティア論では、「善意の徒労」を防止できない。社会に役立とうとする人と、社会に寄生して好き勝手に暮らす奴との2極化を防ぐことはできない。「ゴミを捨てる奴」は当面、勝手気侭にゴミを捨て続ける。一方の環境ボランティアは毎日毎日ゴミを拾い続ける。Tさんはいつまで拾い続けるのであろうか?「空しい努力」だと思うことはないのであろうか?また、「ゴミを捨てる奴」は、Tさんの努力をよそに、いつまでゴミを捨て続けるであろうか?恐らく、いつでも、どこにでも、誰に対しても、捨てられる状況があれば、永遠にゴミを捨て続けるはずである。彼らは「生きる礼儀」を教わっていないからである。ルールも規範も身についてはいない。一方で、断固たる環境条例を整え、他方で、少年の時代から環境保全の役割と責任を義務付ける教育的措置を取らない限り、クリーンキャンペーンは「善意の徒労」が続くであろう。
7 「主体性論」の呪縛
現在の日本社会は、「ゴミを拾う人」にボランティアの勧めを行いながら、「ゴミを捨てる奴」には「捨てるな」とは必ずしも教えていない。通常、人は「教っていないこと」はできない。「やったことのないこと」は上手にはできない。しかも、教育にも、体験にも「適時性」がある。もっとも効果的なタイミングは教育の適時性(Teachable
Moment)と呼ばれる。人類の長い経験から、社会生活上の躾は子どもの頃に行なうのが最も効果的である。ボランティアが社会にとってそれぞれの著者が説くように「世のため、人のため、自分のため」になくてはならぬものであると言うのなら、当然、その考え方も、実践体験も、少年期に教えるべきであろう。にもかかわらず、青少年ボランティアの教育論は極めて「安易」である。ボランティア論者の多くは、人間の主体性を何よりも大事にするが、主体性は自然発生はしない。環境や社会への関心も自然発生はしない。ボランティア論の多くは、子どもの関心や主体性がどのように形成されるかについてはかならずしも留意していない。従って、議論も稀薄である。まして、発達途上の子どもに初めから「主体性」があるわけではない。初めから「関心」があるわけではない。ボランティアに関する教育論の方向はここから分裂する。
8 「必修クラブ」の発想
クラブ活動は本来自由なものである。その点でボランティアと原理的に共通する。学校は、クラブ活動を紹介・奨励するため、特別活動のように、カリキュラムに位置づけ、「クラブ活動」を必修にする場合が多い。クラブの選択は自由であるが、クラブ活動に参加することを義務付けている。 子どもの家庭教育を意識している親も同じように発想する。豊かな社会では、家庭生活に不可欠な義務的労働、強制的役割分担はすでにない。また、子どもが自発性に手伝うことも稀であろう。結果として、お手伝いの大半は、教育的配慮による共同、役割分担、責任の指導になる。お手伝いの中身・方法の選択肢は認めるが、「手伝わない」という選択肢は認めない。「必修クラブ」の発想であり、「必修お手伝い」の発想である。
社会がボランティア教育の必要を認めた時、学校ボランティア指導も「必修クラブ」の発想に類似する。自分の興味・関心に基づいて何を選んでもよいが、ボランティア活動に参加しないことは認めない。「外枠」の強制と「内側の自由」を組み合わせるのである。言葉を飾らずに言えば、部分的選択を許しながら、教育の名による強制を行なう。「すること」は「他律」で、「何をするか」は「自律」に任せる。この点で青少年ボランティアは成人のボランティアと根本的に異なる。成人には活動の選択権は無条件で保証する。成人の主体性が前提になるからである。参加する自由も、参加しない自由も保証する。しかし、子どもは別である。本気で指導しようとするのであれば、ボランティアにおける「主体性」の原則は青少年ボランティアの場合は「棚上げ」しなければならない。
9 少年教育の特殊性
欧米においても日本においても、青少年が学ぶ過程にあるという事実は全く変わりない。それぞれの社会は、それぞれの基準に基づいてある年齢までを「半人前」あるいは「未成年」として扱う。少年は未だ一人前として認知されず、社会化の訓練過程にいることを意味している。それ故、ボランティアの第一原則である「本人の選択と主体的判断」を青少年の学習過程にそのまま適用することはできない。もちろん、ボランティア活動の幸運な結果としてもたらされる「社会性」も、「連帯性」も、「創造性」も、「開拓性」も、「先駆性」も、少年に理解される保証はない。これらは人生に熟達した経験者の「あと追いの総括」である。子どもはいまだ未熟である。善悪の判断も時には危うい。活動がもたらすであろう将来の「実り」を予見することはさらに難しい。「未熟」と「半人前」、それがあらゆる青少年教育の出発点である。ボランティアを教えるにあたっても例外であるはずはない。
それぞれの社会は教育と訓練を通して青少年の成長を促す。主体的判断のできる自立した個人を育成しようとする。それ故、青少年におけるボランティア精神の涵養は、社会がそれを必要と判断することによって行われる。原則として青少年自身の判断によるものではない。当然、ボランティアの「主体性」原則と青少年の「未熟」な実態は両立しない。まだ成立していない少年の「主体性」を前提にして、ボランティアを論じる人々は「半人前」に対する人間観が甘いのである。礼儀も知らず、規範意識も無く、「ゴミを捨て続ける人びと」が絶えないのは青少年期における「半人前」教育の失敗の付けである。「ゴミを拾い続けるボランティア」こそいい面の皮である。
10 学ぶ仕組み
青少年に対するボランティア精神の涵養は、必然的に自立した個人(成人)の場合とは異る。中身も、方法も、動気付けも異なる。具体的にいえば、少年にはボランティア活動のモデルを提示しなければなならない。ボランティア活動を推奨する社会的雰囲気も醸成しなければならない。その中で教育の必修として一定の方法を教えるのである。しかも、これらの学習や訓練の内容は反復が肝要である。子どもたちの身について、彼らが社会の期待する行動を自然に行えるようになるには膨大な時間を必要とする。反復練習の原則は、他の学習分野の場合となんら変わらない。それ故、子どもたちの反復練習を支える世間の空気が不可欠である。それが家風であり、家訓であり、校風であり、校訓である。方法論的には、「小さな親切運動」や「セツルメント運動」等があった。最近では、総合的学習も登場した。少年の必修ボランティアは、社会の同意なくしては出来ない。先ずは大人達が「手本」を示し、ボランティアの風が起らなければ、少年の意欲は喚起できない。
11 青少年にとっての価値の「先在性」
青少年の場合、原則として彼らが主体的に判断を下す自立した個人ではないという前提がある。それ故、青少年に対するボランティア精神の学習は「モデル」や「型」を提示するところから始めざるを得ない。ボランティアの精神は優しさや親切やいたわりや奉仕の具体的な実践を支えるものである。しかし、発達途上にある青少年がこうした精神の価値を十分理解していると仮定することは難しい。
どの社会の場合でも、青少年教育の大部分は、目指すべき価値も方向も示されている。社会の歴史と経験を踏まえた一定の回答がすでに提示されている。ボランティア精神についても同様である。「優しさ」や「思いやり」は人間社会にとって価値あるものであるという歴史的前提がある。それがボランティア教育の原則である。価値は神仏の言葉として示される。あるいは全体社会を維持・発展させるための倫理として示される。ボランティアにとって、「助け合い」は人間にとって美しく、且つ、不可欠の倫理である。。倫理は自明のものとして「先在的に」提示されている。かくして、青少年ボランティアの最大特徴は、「価値の先在性」である。
12 役割演技と役割取得ーG.H.ミードの古典的理論
青少年は歴史的に先在している価値の前提を必ずしも理解してはいない。理解した上でボランティア活動に参加するわけでもない。彼らは自らの行為の意味や価値が分からない場合でも、社会の推奨に従い、自分を取り巻く親や教師や先輩の励ましと賞賛に元気づけられてボランティア活動に参加するのである。即ち、行為の内容や意味はわからなくても、社会的に評価を受け、励ましを得ることによって、自分に与えられた役割を演ずるのである。
具体的に言えば、仮に子どもたちが「親切」を実践していたとしても、彼らはまだ本心から親切ではないかもしれない。また、子どもたちのいたわりの言葉も、やさしい振る舞いも、彼らの心から自然とにじみ出てくるものではないかもしれない。彼らは社会により、周りの大人たちにより、「いたわり」の型、「親切」の役割を教えられる途上にあるのである。
即ち、「親切とは価値あることである」、「いたわりは美しいことである」と教えられているのである。彼らはその発達途上において、親しい大人や社会から寄せられた役割期待に応え、「親切」を演じ、「いたわり」を実践する。それらはまだ彼ら自らが信じるところではないかもしれない。また、真に身についた思いではないかも知れない。結果的に、行為と心情が分裂してしまうこともある。子どもたちの思いと行いとが分離され、「親切」が単なる「役割の演技」に留まってしまった時、子どもは「ぶりっ子」にならざるを得ない。青少年の道徳教育やボランティア学習が多くの点で「偽善」の匂いをさけることが出来ないのはこのためである。
13 評価は不可欠
何につけ、評価はむずかしい。もちろん、難しくても評価は不可欠である。ボランティアも例外では無い。まして、ボランティア活動の普及を目標とするならば評価なしに青少年の役割意識ー役割取得を促進することは難しい。青少年活動の評価方法は様々に工夫が必要である。「認めてもらうこと」には色々なレベルがあることは当然であるが、「認めてもらって」初めて青少年は当該行為の意味を確認するのである。G.H.ミ−ドは「認める側」の人々を「特別他者(Significant
Others)」と「一般的他者(Generalized
Others)」に分類した。「特別他者」とは家族や友人のような本人にとって特別の意味のある親しい人々である。「一般的他者」とは広く世間を指す。他者の認知なくして役割を取得することはない。「やらせて、ほめる」ことこそ役割取得の原点である。
14 「偽善」のすすめ
人は誰でも社会的承認を必要としている。まして、今まさに発展途上にある青少年は社会に受け入れられ、親しい人々の励ましと賞賛を渇望している。それ故、青少年の多くが実際には本人の気持ちと異なるにも関わらず、「ほめてもらいたい」、「認めてもらいたい」一心で一定の役割を演ずるのである。この過程こそが社会化における役割取得のプロセスである。そして、彼らの行為における「偽善」の匂いこそが、青少年の発達の重要なカギを握っているのである。「バカ」の真似も3年すれば、本物のバカと変わりない。「親切」も「いたわり」も同じである。その実践を数年に渡って演じきれば、本物の親切といたわりの「行為」に育っていく。青少年の場合、ボランティア活動の勧めは、不可避的にこの「偽善」のすすめの過程を通らざるを得ないのである。
15 「酸っぱい葡萄でなければ辛すぎる」−「認知的不協和」の解消
「認知的不協和」とはレオン・フェスティンガー(Leon Festinger)が提出した概念である。「認知」とは自分の理解であり、感じ方である。
「不協和」とは、実際に起っている「現実」と「自分の理解・感じ方」の”づれ”を言う。
自分は「そうは思っていない」のに「現実はそうなっている」時、認知的不協和が発生する。人間は胸の内に「不協和」を抱えて生きることは難しい、とフェスティンガーは断じる。それゆえ、不協和を解消する圧力が生じる(*6)。「現実」と「思い」が矛盾しているところから「不協和」が発生している以上、それを解消するためには「現実」を変えるか、「思い」を変えるかどちらかしかない。通常、「現実」を変えることは簡単ではない。それにくらべれば、自分の思いを変えることは、相対的に容易である。かくして。人は「変え難い現実」との不協和は自らの「思い」を変え、現実の「解釈」を変えることによって解消する。結果的に、本人の思想や感性も変わって行く。
(*6) L.フェスティンガー、末永俊郎監訳、認知的不協和の理論、誠信書房、1965年
「人に衝撃を与える現実は、それに相当する認知要素をその現実に対応させるような方向に圧力を及ぼす。(p.11)」
「不協和の存在は、不協和を低減し、または除去する圧力を生ぜしめる。不協和を低減する圧力の強さは、不協和の大きさの関数である。(pp.18-19)
16 少年期に苦痛を与えよ!
古来、「辛さに耐えて丈夫に育てよ」と言う。「子育てには、三分の飢えと、三分の寒さが肝要」とも言う。少年にとっての「辛いこと」はずっと「辛いまま」なのかというとそうではない。
人生の「辛い季節」を懐かしく思う時があるのは、多くの人に共通している。時には、「辛さ」の中で、様々なことを学んだように思う時もある。「人の情け」に触れたと思う時もある。なぜ人は「辛い季節」が懐かしいのであろうか?答は単純である。「認知的不協和」の解消圧力が働くからである。「辛い季節」がいつまで経っても「辛い季節」のままだったら救われないからである。
「辛い季節を生きたくはなかった」という思いと、実際には「辛い季節を生きたという現実」は激しく矛盾する。「認知的不協和」は大きいのである。生きるに値しない時間を生きたと考えることは辛い。その辛さから逃れるためには「辛い季節」にも良いことはあったのだと思うしかない。自分の視点を変えさえすれば、「現実」は多面的であり、様々な解釈の余地がある。実際に「辛い季節」の中で人は様々なことを学ぶのである。「あの季節に耐えたからこそ今日がある」という解釈はその代表である。人はそのような「解釈」の変更を「適応」と呼び、「合理化」という。「負け惜しみ」というかも知れない。しかし、おそらくそれこそが「認知的不協和」の解消策なのである。跳んでも、跳んでも、努力の甲斐なく葡萄に届かなかった「イソップ」のキツネは「あれは酸っぱい葡萄なのだ」と納得しなければこの世は辛すぎるのである!少年の成長には教育的に配慮した「不便」や「辛さ」が不可欠である。そこから「生きる力」を体得するからである。「主体性」開発途上の少年には役割と責任を与えるべきである。「役割」も、「責任」もそれを果たす中で「主体性」が向上するからである。ボランティア活動には、「主体的判断」も「役割」も、「責任」も含まれる。時に、それらが「辛い」というが、その「辛さ」こそがボランティア体験の教育効果をもたらす。自分探しの探険に出すため、少年のボランティアは「必修クラブ」にすべきである。教育的効果には「時差」がある。たとえ、多くの少年が「辛い季節」に耐えなければならなかったとしても、いずれは「認知的不協和」の解消圧力が働いて、「必修クラブ」の苦痛を懐かしく反芻する時が来るのである。
ボランティア論者の多くは、自由の名において「義務」や「必修」を喜ばない。それは「苦痛」の代名詞だという。しかし、苦痛を伴わぬ教育は存在しない。少年の教育とは、励ましながら、役割や責任や主体性の「辛さ」の中に放り込んでやることである。ボランティア論者の多くも、教育関係者の多くも、「認知的不協和」の根本が分かってはいない。 |