通じないのは英語力のせいとは限らない

 アメリカに来て4年半、英語で苦労した経験は数知れず、今も拙い英語で日々の生活をどうにか送っていることには変わりはない。
 ここに至りつくづく思うのは、外国語の修得に関しては「ここまでできるようになったから言葉には苦労しなくなった」という絶対的な境地など存在せず、どのレベルにいてもそれなりに苦労や悩みがあるということだ。少し高度なコミュニケーションができるようになれば、そのレベルに見合ったチャレンジをするようになる。もっとうまくなりたいと思う限り悩みは尽きない。その限りにおいて常に学習は継続し、もう学習しなくてよい、という状態になることはない。そのような状態があるとすれば、それはその人が自分の状態に満足した時か、向上を諦めた時だ。
 以前は、何か通じないことがあると自分の英語力のせいだと思うばかりだったが、最近必ずしもそうでないことも多いのではないかと感じるようになった。英語のリーディングやリスニングの力の不足は、文脈を読み取る力でかなりの部分カバーできる。ライティングやスピーキングの力不足は、相手に文脈を掴んでもらえるような表現の仕方をすることでかなり補える。英語のフレーズを知っていることは大事だし、たくさん知っているに越したことはないが、結局のところ英語という言語の問題だけでなく、コミュニケーション力そのものに影響されるところが大きい。
 知識の不足による影響も大きい。たとえば、読書課題で英語の文献を読んでいて、英語が難しいわけではないのに???となることはよくある。先日たまたま同じ文献の日本語訳が手元にあって、同じところを読んでみたら、やっぱり???だった。この場合、どれだけ英語を勉強してもその部分を理解できるようになるとは限らない。
 日常会話の場合、相手に問題がある場合もある。いかにネイティブスピーカーとはいえ、カンの悪い人というのはたくさんいる。カンの悪い人と話すときに通じないのは、多分に英語のせいではない。相手がこちらの言っていることの文脈を拾えるように話してあげる必要がある。そのことに気づかないでどんなに正しい発音の練習をしても、それだけで通じるようにはなかなかならない。
 英語の勉強をした方がよいのはもちろんだが、ポイントを外すと徒労が多く、効率的でない勉強を延々と続けることになる。実践の文脈から抜き出した形で英語だけを勉強すると、あまり効率的でないことが多い。特によく学校でやっている「学んでから練習する」というスタイルは、テンポが悪くなりがちで練習が意味を成さないことが多い。テレビで「使える英語」のフレーズばかり覚えても、肝心な時には使えない。
 あなたが英語教育の提供者であれば、ある文脈の中でコミュニケーションをとる練習をいかに積ませるかが重要で、その考え方が欠落した教育は時間とコストの浪費なのでやめた方がよい。
 あなたが学習者であれば、通じないのを何でも英語のせいにしていると、ストレスになるし、学習の的を外すこともあることに気をつけた方がよい。逆に少し目先を変えることで通じるようになることも多い。英語の力をつける、という漠然とした目標よりも、「パーティトークを磨く」とか「医者に自分の状態をきちんと説明できるようにする」など、何でもいいので自分の関心に合った具体的なテーマを持って臨んだ方が結果的に上達は早いし、文脈の中でコミュニケーションをとる力も一緒に身につけやすい。

どこにでもある「あるある」問題

 ここしばらく、日本では「あるある大事典」の捏造問題で大騒ぎになっているのをネット上のニュースでよく目にしている。発端となった納豆だけでなくて、味噌汁もあずきも実験データはインチキだったという話で、今までの放送の信憑性そのものが疑われ始めていて、さらには同様の健康情報番組にも疑惑の目が移っているという状況には、情報源の多い日本の皆さんの方が詳しいと思うので説明の必要はないだろう。
 データの捏造については、実験の方法やデータの集め方をいちいちあげつらえば、いくらでも難癖は付けられる。すでに世の空気がバッシングに傾いているため、今までスルーしてきたことがすべて今明るみに出たような風に取り上げられ、「なんてひどい番組だったんだ」という社会的な評価を下される。実験に参加した人たちや、コメントを取られた専門家たちも、ここぞとばかりに「私はずっと怪しいと思っていた」などと言い出す。これは「不二家の期限切れ原料使用問題」でこれまでの問題が掘り起こされて批判的風潮にさらされているのと状況は酷似している。
 いただけないのは、みんな被害者面をして叩けばいいと思っていることだ。視聴者は「だまされた」と口を揃えて言う。視聴者の問題は多分に情報リテラシーの低さの問題に起因している。むしろこのような極端な情報に影響され過ぎる風潮に水が差されて、こういう話を安易に鵜呑みにしてはだめだという社会的な教訓となってよかったと思う。楽してやせようとか、苦労せずに得しようというような、虫のよい話はインチキだったり裏があったりするのが常なのだし、納豆代程度の被害で教訓を得たのだからありがたいと思うべきだろう。
 さらに根が深いのは、被害者面をしているテレビ局や広告代理店、スポンサーなどの提供者の側だ。彼らもただ制作会社を悪者にして言い逃れをし、今後このようなことが再発しないようにと、おそらくは制作会社をさらに締め付ける方向で社会の関心をそらしてやり過ごすことだろう。
 だがここには、テレビ業界のシステム的な問題があり、さらには他の業界や日本社会全体に共通する問題が内在している。図式としては、強者や支配者による被支配者の締め付け的な構図に起因していて、その中ではいかに成功しようと失敗しようと、最終的には誰も報われない構造になっている。テレビの世界では、番組が当たれば視聴率が上がり、その番組からの収益が上がる。収益が上がれば制作側への期待とプレッシャーは高まる。同じレベルの刺激では視聴者に飽きられてしまうので、さらに刺激の強いものが制作側に要求される。期待の上昇に見合った予算やリソースが提供されるわけではなく、要求だけが高まる。無理をして結果を出すのも長続きはせず、結局は今回のような実験データの帳尻あわせに走り、それが慢性的な不正体質化につながる。中途半端にヒットを飛ばしてしまうと、この構造の中でブレイクダウンを起こすまで消耗させられるため、平凡な仕事しかできない場合よりも、最終的には不幸な結果につながるリスクは大きくなる。
 この構図は、テレビ業界だけでなく、どこにでも見られる。高校の必修科目未履修問題も根は同じだ。大学受験で結果を出すことが評価につながり、行政から降りてきた施策への対応も同時に求められ、現場レベルではパンクする。結果として、現場レベルであまり目立たない形で帳尻を合わせようとして安易なソリューションに走る。隣の高校でそんなことをしていると聞いて、ではうちも、という形で次々に伝播する。暗黙の了解とされていたものが、あるタイミングですべて明るみに出て、学校が悪者となり、批判が集中する。
 まっとうで普通に仕事のできる人間も、ずっと締めつけられて無理を強いられ続ければ、創造性は枯渇して仕事のクオリティは下がるし、限界を超えればどうしようもなくなって不正に走りやすくなる。あるいは精神に異常をきたしてしまうか、最悪なケースでは死を選んでしまう。視聴率だけを追い求めて、制作側にキャパシティを超えた負担をかけ続ければ、このような抜け道を考え出して、間に合わせようとする事態は容易に起こる。スポーツ選手も周りの期待が過度すぎて追い詰められればドーピングで切り抜けられるような気がしてくる。売れっ子の作家も仕事をさばききれないままにプレッシャーだけかけ続ければ、ちょっとだけのつもりで盗作に走って泥沼にはまる。学校で安易に民間校長を呼んで教育委員会と教員組合の間で板ばさみの状態で放置すれば、思い余って死を選びたくもなる。
 どんな組織にも、似たような構造はあって、これを変えていかない限り、このあるある大事典のような問題はあちこちでいくらでも起こる。明るみに出たものだけを批判しても状況は改善せず、監視を強化するという安易な対策は、社会的コスト増と現場レベルの生産性を下げることにつながるだけで、よい結果につながることはまずない。
 問題の根源には、作り手のモチベーションが軽視されていることがあるし、個人も組織も、社会全体が何か魔法のようなお手軽なソリューションを求める風潮もある。期待だけしていれば誰かがすごいことをして助けてくれるのではないかという受身な姿勢や、問題があっても見て見ぬ振りをしてやり過ごす姿勢もある。
 そんな状況ではどんな成果を出そうと、誰も報われないし、むしろ下手に成功してしまうと、そんな破綻へのレールに乗ってしまいやすい。そして問題が顕在化してきた時にはもう手遅れとなっている。これは他人事ではなく、誰の身にも起こり得る。だが、残念ながらこの状況は容易には変わらず、個人はその中で生きていくことを余儀なくされる。個人レベルでできることは多くないが、まず大事なのは、少なくとも自身がそのような状況下に身を置いているということを認識し、不正や破綻への道が目の前に広がって来た時に見えるシグナルを見過ごさないようにすることだろう。

「しゃべる!DSお料理ナビ」 レビュー

 少し前に日本で入手した「しゃべる!DSお料理ナビ」を最近よく利用している。このレシピを参照しながらここ一週間で、自分のレパートリーからは微妙に外れていた、肉じゃが、玉子スープ、ポテトサラダを作ったし、ネタに困った時のアイデア出しにも活躍している。
 このソフトは、ニンテンドーDS用のお料理レシピソフトで、200種類ほどのレシピを利用できる。紙媒体のレシピには、検索の便利さで勝っていて、従来のマルチメディアレシピには、持ち運びの便利さで勝っている。検索の方法も、料理名、食材別、テーマ別などの複数の方法が提供されている。DSのハードの特長であるペン入力が活きていて、操作性もよくて快適に利用できる。ソフトの名前の通り、料理の手順を読み上げてくれるので、読まないといけない情報量も少なくて済む。
 一般的にレシピの用途は、主に「料理のアイデア出し支援」という探索的用途と、「作りたい料理を作るために必要な情報提供」という検索的な用途があると思う。前者は紙媒体のレシピも結構強い。きれいな写真つきのレシピをパラパラと見ていれば、そのうち作ってみたい料理が見つかる。だが、後者の方は紙媒体だとあまり用を足さないことが多い。目次や索引が食材別、テーマ別、場面別など細かく分かれていても、もう一つ使い勝手が悪いし、情報を盛り込めばその分だけ重くなって使いにくくなる。
 また、料理を作る場合、かなりハードコアに料理が趣味な人でない限りは、レシピがルーチンとして生活に入り込むのはなかなか難しいと思う。普段は手持ちのレパートリーのローテーションでレシピを参照する必要はない状態で、あるときふとテレビを見ていてうまそうな料理が出てきてから作ってみようと思ったとか、ジャガイモが余っていて悪くなるから使い切りたい、などの動機から始まる。そのためあるとき思い立ってカッコいいレシピを買ったとしても、本棚でほこりをかぶって忘れ去られるということになりがちで、たまに本棚から引っ張り出して使ってみても、使い慣れていないのでかえって効率が悪くなる。レシピのCD-ROMソフトウェアは、さらに面倒で本よりも使われる頻度は下がる。かろうじて、レシピ情報ウェブサイトは、その検索性の高さのおかげで利用されやすいが、いざ使うときは紙にプリントアウトして持ち運びよくする必要が生じる。
  この「しゃべる!DSお料理ナビ」は、その辺りのデザイン上の課題をうまく消化していて、ユーザーの行動にあったデザインを提供できている点が優れている。料理のアイデア出しのためにパラパラとめくることもでき、手持ちの食材を入力して、それで作れる料理を検索できる。キッチンに持ち込んで、手順を参照しながら利用することもできる。DSでレシピという新規性だけでなく、この辺りの利便性が付加価値となっていることが人気の理由の一つになっていると想像できる。
 学習支援的な要素も多い。作ったことのない料理を、手順通りに作れば美味しくできるというのはもちろん実現している。さらに、「お料理事典」として、切り方や下ごしらえの方法を項目別にしてあって、「たんざく切りってどうやるんだろう?」、「ごぼうのささがきってってどうやるの?」といった技術的な疑問も実演映像を見ながら解消できる。手持ちのレパートリーの料理においても、それまで我流で適当にやっていたところを、より簡単な方法やもっと上手に味を調える方法を教えてくれたりするので気づかされることも多い。以前は特に火加減調節はあまり気にせずに作業することが多かったが、レシピの指導のおかげで気をつけ方がわかってきた。
 いくつか利用上の制約はある。実際にキッチンにおいてみると、結構水が飛んでDSがぬれることもあるのが気になる。それに音声認識が包丁でトントンと野菜を切る音を拾ってしまい、ナビゲーションのシェフのおじさんが「ん?」といちいち反応してくる。次に進む時は「オッケー」と言ってページをめくるのだが、これも途中でうざくなってペン入力でバシバシ飛ばして進むようになってしまう。この辺りは、キッチンで利用することを想定して作られていても、100%想定通りに機能しているわけではない。
 それでも、これまでのいかなるレシピ媒体も凌ぐ利便性を提供しているし、マルチメディアレシピソフトウェアとしては、媒体ごとキッチンに進出できた初めてのレシピソフトではないかと思う。
 つい先日、コーエーが「しゃべる! DSお料理ナビ まるごと帝国ホテル」を発売すると発表された。これも本作の利便性を踏襲しつつ、家庭で帝国ホテルの有名レストランの料理を作れるようにアレンジしたレシピが提供されるということなので期待できる。
 このソフトに見られる、「ゲーム会社が主導して、ゲームで培ったインタラクティブメディアのノウハウを活かして、従来は接点のなかった業界と協力して社会に付加価値を提供する」という動きは、欧米ではシリアスゲームの枠組の中で起こっていることだが、まだコンシューマ市場でのビジネスモデルを確立するには至っていない。その一方で日本では、シリアスゲームの普及より先に、その精神とするところがよく実践され、ビジネスモデルも示されている。この辺りに任天堂をはじめとする日本のゲーム会社の持つ強みは活きており、高度な大作ゲーム分野で敗色が濃くなっている日本のゲーム会社の活路の一つがここにあるのかもしれない。

ゲームで身につく知識・スキル(1) プロービングとテレスコーピング

 ゲームをプレイすると、さまざまな知識やスキルが身につく。これまでは、「何となく身についている気がする」感覚でしかなかったものが、ゲーム研究者によって徐々に概念的に整理されて、学術的な言葉で説明されるようになってきた。
 最近、翻訳書が出たおかげで広まったのは、スティーブン・ジョンソンの「ダメなものは、タメになる テレビやゲームは頭を良くしている」のなかで触れられている、「プロービング(probing、調査)」と「テレスコーピング」という認知的スキルだ。「プロービング」とは、ゲームを始めて、そのルールや目的、コツを理解するための調査行動、「テレスコーピング」とは、目的達成のための行動を構造化して順序だてる知的作業のことを意味する。
 インベーダーやパックマンのような昔のアーケードゲームやテトリスのような単純なパズルゲームであれば、ルールも目的もすぐに理解できるため、プロービングもテレスコーピングも不要だ。ところが最近の大作ロールプレイングゲームやリアルタイムストラテジーゲームのような複雑なゲームになってくると、ゲーム世界は広大で、与えられる情報も膨大、複数の目的やタスクが同時に進行するものが多い。そうなってくると、上手くゲームをプレイするためには、インベーダーをやるような感覚とは全く違った高度な情報処理が必要になってくる。
 プレイヤーは、そのような複雑なゲームの世界で、自分のおかれている状況や次に何をすればよいかを把握するための調査行動を取って、その世界のルールや自分が取れる行動の範囲、次に行うべきことを見出す。その次に、取れる行動の中で、目的に合わせて最適な行動を取るためにはどの順番で行なえばよいかを大目的、中目的、小目的と構造化して、制約条件を勘案しながら順序立てる。地点Aに行くのがゴールとして、そこに行くためには地点Bに行って地図を手に入れ、途中の地点Cに出てくる敵を倒すために必要なアイテムを地点Dで手に入れ、そのアイテムを手に入れるための条件を地点Eで満たし・・・といった具合に、作業工程がガントチャートのような形で頭の中にマッピングされる。
 ゲームの初心者は、このプロービングもテレスコーピングもできないままにプレイすることを余儀なくされるため、目的到達までに余計な労力と時間を要する。慣れてきて上達してくると、ゲームの勘所がわかってきて、無駄なことをせずに必要な作業に労力を集中することができるようになる。
 この二つのスキルは、日常生活において未知の環境で必要な情報を見つけ出したり、複数のタスクを与えられても混乱せずに効率よく仕事を進めるために必要なスキルそのもので、斉藤孝の言うところの「段取り力」に近い概念だと言える。問題は、ゲームの中で身につけたこれらのスキルが他の環境に置かれた時に引き出してこれるような、「メタ化された知識」として定着させられるかにかかってくる。
 一つのゲームに熟達することで、他の同じジャンルのゲームでも上達が早まるということが起きるのは、そのジャンルのゲームを一つの領域とした知識(ドメインナレッジ)が蓄積された状態になっている。それを異質な環境や全く異なる領域でも利用可能な知識にするには、ドメインナレッジをもう一段階押し上げて、メタ化する必要がある。部分的な知識をドメインナレッジ化して、さらにメタ化した知識にするような認知的変容を、教育学的には「学習の転移」と言い、学習の転移を起こす学習原理や教育方法の研究は、長年にわたって取り組まれてきた。
 ゲームで身につく知識は、普通に一つのゲームだけ熟達しても日常生活や他の領域で使える知識にはなりにくい。知識を領域化し、メタ化を促す作業が必要となり、なかでも特に個人の学習行動の中では振り返りや省察と呼ばれる行動に支えられる要素が大きいと思われる。そうした学習行動を起こすには、ゲームの中でそのようなサポートをするゲームが出てきてもよいし、ゲームの外で行われる学習活動を支援する活動の中で消化するということも可能だ。そのために重要になってくるのは、ジョンソンが指摘しているように、昔のゲームのイメージで今のゲームを捉えないことであり、ゲームの中で起きている知的作業の意味を捉え直していくことだろう。
※プロービングとテレスコーピングの詳細は、次の文献を参照。

教育評価の7つの落とし穴

 どの分野の研究でも似たようなものだと思うが、教育分野の研究においては、新たな教育方法や、開発した教材、デザインした学習環境のもたらす効果に対する評価が問題となる。評価の観点は、その教育・学習活動に参加した学習者の学習の成果、デザインされた環境や制作物の使い勝手や利用者の満足度、得られた成果と実施にかかる費用の対比、などがよく取り上げられる。
 新たにデザインした教育方法や学習環境が優れていることを説明するには、これらの評価項目において何らかの優れた点を実証することが求められる。新しい教育方法、教材への批評はまず、評価面が指摘される。「どうやってその効果を測定して評価しているのか?」と質問すれば、とりあえずは形になるので、その質問を言い放って威張っているだけの人たちも学会に行けばたくさんいる。だが、だいたい評価云々しか言うことのない人のほとんどは、自分自身が評価というものを理解しているわけではないことが多い。
 教育評価は簡単ではない。複雑な要素が絡み合っていて、一般に考えられているほど簡単には適切な評価を行うことはできない。さらに今までにないような教育方法を評価しようとすると、なお困難が伴う。それは次のような状況から生じている。とりあえず、「教育評価の7つの落とし穴」と名づけて列挙してみる。
<教育評価の7つの落とし穴>
1. 評価(Evaluation)を行うには、測定(Measurement)を適切に行う必要があり、測定を適切に行うには、評価の軸を明確に持っておく必要がある。評価の軸を持たずに測定を行っても、評価に必要な材料は集まらないし、そもそも適切な評価などできない。
2.測定は、測定者の想像力の及ぶ範囲のことしか測定できない。デザインした時にはやや漠然としていて測定項目に仕立て上げられなかったことや、想定していなかったことは、測定指標には盛り込まれず、予期していなかったよい効果が生じてもそれを学術的な正統性を主張できる形で説明するのは困難になる。これは評価全体について言えることで、評価者の想像力の及ぶ範囲のことしか評価できない。そのため、評価者がヘボければ、ヘボい人の頭で理解できることしか評価されない。
3.測定は、測定・評価者のスキルの及ぶ範囲のことしか測定できない。評価する側が学力テストや質問紙しか測定方法を知らなければ、その方法で測定できるものだけを測定して、そこからあぶれてしまう学習者の質的変化や相互学習の質のような要素は説明できない。授業観察などの手法を取り入れる場合も同様で、観察者の技量を超えるデータは得られない。
4.測定は、測定を行う人が得意な方法や、評価者が好む方法で行われる傾向にある。そのため、テスト理論の専門家ならペーパーテスト、質問紙調査の専門家なら質問紙による学習者調査、と自分の得意分野でメインの仕事が行えるように研究自体が設計される。そのため、研究の趣旨によって純粋に測定方法や評価項目を決めるのではなく、測定しやすいことや評価者が扱いやすいことに影響されて決められてしまうことが多い。
5.ある研究分野の専門家は、必ずしもその分野の教育測定の専門家とは限らない。むしろ測定の専門知識と経験を持った人は稀少であり、学部でかじった程度の素人知識を頼りにぶっつけで測定を行うことのほうが多い。テスト理論はある程度ノウハウが普及しているので信頼性や妥当性の安定を図ることができるが、質問紙調査の方は専門性がなくてもできそうな気がしてしまうため、いい加減に実施されることが多い。
6.測定は、その活動の状況に依存する要素が大きく、科学的再現性を証明するのは困難が常に伴う。教室の気温がちょっと寒いとか、教師が使うマイクの電池が途中で切れたせいで教室の緊張感も切れたとか、ちょうど昼飯前で学習者の腹が減っていたとか、昼飯後に実施したのでみんな眠かったとか、パソコンが原因不明のフリーズを起こしたとか、翌日に何かイベントが入っていて、学習者が気もそぞろだったとか、成果を変動させる要素は無数にある。そのため、たまたまコンディションのよいときと悪い時で、測定結果は大きく変わる。ゆえにその結果を基にした評価の結果もブレが大きくなる。統計的手法は、より科学的に分析してそういうブレを小さくするために用いられるが、多くの場合、統計的有為というのは、論文が学会誌で採択される程度の説得力を与える存在に過ぎない。
7. 高度なハードウェアを使用した測定方法は、それだけで信頼性ある測定ができているような「科学への過信」に影響される傾向がある。何でも脳をスキャンすればよいわけでもないし、スキャンした結果の解釈も、多くの要素を考慮に入れて行われる必要があるので、誰が見ても一つの解釈に落ち着くとも限らない。それに高度な設備が利用できる場合、そういう設備を利用することを前提に評価方法が決まり、それに影響されて研究そのものが設計されてしまって本末転倒になることもある。
 今はとりあえず思いつくのは7つだが、おそらく考え出せばもっとあると思う。問題は、一般人はもとより研究者も、こういう落とし穴があることを考えず、とりあえず評価、評価と言っていれば何か仕事をしたような気になっていることだ。測定も評価も専門知識が必要で、必要な知識を持った研究者というのは驚くほどに少ない。
 数千万、数億円規模の研究プロジェクトにおいて、必要な評価の知識を持った人がいないまま、適当な測定とお茶を濁すような評価が行われて、何となく使えない研究成果に終わるような例も見受けられる。というか、残念ながら大学の研究プロジェクトというのは、耳障りのよい研究計画書を書いて資金獲得してきて、プロジェクトメンバーに予算配分されたら、そこでやれやれひと段落、というものばかりで、成果として社会で何かの役に立つようなまともなものが出てくることはほとんどないといった方がよい。
 そうなってしまう事情は、大学というシステムに起因する問題から生じている面が大きく、研究者は両手を縛られた状態でいい成果を出しなさいと言われているような状況にある。なのでこれは個々の研究者を責めてもしょうがない性質の問題だと考えた方がよい。誰だって外部資金の無駄遣いをしたいわけではないし、自分で選んだキャリアにおいてよい仕事がしたいという想いは変わらないだろう。
 このような寒い研究環境から抜け出すための方策としては、評価の専門知識をもった人材を適切に配置できるようにすることで、そのためには評価に対する世の中の甘い認識を変えていく必要があると思う。少なくとも、今の研究者育成環境の中では、適切な知識を持った評価者が生まれることはなくて、たまたま評価に関心を持った研究者が一部いるだけである。特に質的測定や評価がまともにできる人となるとさらに数は限られる。きちんとした教育評価の知識を持った人が一定数以上世の中で活躍するように手を打っていけば、そこから教育分野の研究の質も上がり、各分野の教育活動の改善にもつながるだろう。

アメリカンアイドルシーズン6開始

 「24」に続き、全米視聴率ナンバー1の歌手オーディション番組「アメリカンアイドル」シーズン6も今週から放送開始された。この番組もこれまでのシーズンと同じフォーマットを踏襲している。最初の数週は全米各都市でのオーディションの模様、次の数週を勝ち残った参加者がハリウッドでの2次予選に進み、上位12人での決勝からは毎週一人ずつ脱落していって優勝者がアメリカンアイドルとなる。
 毎シーズン、優勝者と準優勝者はメジャーデビューしてアルバムをリリースしていて、決勝に残ったうちで人気があったもう一人二人もデビューを果たしている。決勝に残った挑戦者の多くはプロとして十分通用する歌唱力を持っているが、この番組の持つ独特のノリと勢いによって下駄をはいている面が多分にある。番組が終われば熱狂に支えられたマジックは消えてしまい、一発屋で終わろうとしている人たちもいれば、人気を保ってそのままアイドルとしての地位を確立しようとしている人たちもいる。シーズン1優勝のケリー・クラークソンやシーズン2準優勝のクレイ・エイケン、シーズン4優勝のキャリー・アンダーウッドはトップアイドル入りを果たしている。Wikipediaを見ると、他の優勝者やメジャーデビューを果たした上位入賞者の何人かは数十万~100万枚のアルバム売上を挙げている。番組のマジックに依存していた人たちはメジャーデビューは果たしたがCDの売れ行きが伸び悩んでいる。そんな人たちはメジャーでシンガーとしてそのまま生き残るのは厳しそうだが、俳優や司会業、地域のアイドルなどの道を模索する人もいる。なかにはつい先日、映画「ドリームガール」でゴールデングローブ助演女優賞を受賞したジェニファー・ハドソンのような大成功例もある。いずれにしてもオーディションのおかげで開かれた、新たなキャリアの歩を踏み出していることには違いない。

 番組のシーズン後半は、そうしたアイドルの卵たちが毎週競って成長していく様子が番組の売りになるが、シーズン当初の数週の番組の売りは彼らではない。自分の実力を省みずに自分が次のアメリカンアイドルになると信じて疑わず、恥ずかしいパフォーマンスを披露してジャッジに酷評されては消えていく人々の滑稽さである。見ていると、アメリカの広さといろんな人が生きていることをしみじみと考えさせられる。
 自分のことを客観視する力がなく、痛い目に遭う機会もなく公共の電波でネタにされてしまう人たちは、気の毒といえば気の毒だ。あきらかに実力がないのに、家族や音楽の先生に励まされて参加してきて、ジャッジに酷評されて激しく傷ついて帰っていく人たちは見るにいたたまれない。
 競争環境での経験がよい学習の機会となる面はある。だが、競争の中で学べるのはそのための準備のできている人たちだけで、それ以外の人たちにはよい経験どころか逆効果でしかない。歌が好きな人でも、こんなところに出てきてひどい目に遭えば、それがトラウマとなって好きな歌が嫌いになってしまう人も結構いることだろう。
 競争のなかでやっていける人と違って、その準備ができていない人は、次の自分の学習課題を把握する力量もなければ、厳しさに耐える耐性もない。そういう人は、そもそも競争に身をさらそうなどと考えずにカルチャースクール的な平和な環境で気楽に楽しみながら学ぶか、上を目指すのであれば競争環境に放り込んでも大丈夫なだけの準備的な学習機会を提供する必要がある。
 アメリカンアイドル自体は教育番組ではないので、そんなことはお構いなしで視聴率が取れれば問題はないし、自己認識と実力にギャップの激しい人ほど観ていて滑稽で視聴者には受ける。なので番組のスタイルに異論があるわけではない。でも教育的な観点で見ていくと、少し違ったアレンジができる。それにそうした低レベルの参加者を切り出す形でもう一つ二つスピンアウト番組の企画ができる。そんなことを考えつつ、無数に出てくる下手くそな人たちの様子を見ていた。

「24」シーズン6開始

 今週から「24」シーズン6の放送が開始された。2時間の放送を二日連続。これでもう今シーズンも目が離せなくなってしまった。
 内容について書くのはやめておくが、基本的なシナリオの型はこれまでのシーズンと同様で、最悪の選択の中で苦渋の選択をして、結局は大きな犠牲を出したり、絶対いなそうなところに裏切り者がいたり、良かれと思ってやったことがものすごく裏目に出たり、テロリストにも事情があったり、不運なご近所家族が災難に遭ったり、テロリストと政治取引をしたり、過去に犯した罪のしっぺ返しを受けたり、こんなことになったら終わりじゃないか、と思ったらまださらに大変な問題があって話が続いたり。基本的にこの作品で確立した型を踏襲している。

 見ていて力が入るので、肩が凝る。展開が速いので、英語で話を追うのが大変だというのもあるし、ずっと緊張感が続くので見ていて気疲れする。見終わった後に変な気の高ぶりが残った感じで、やや身体に悪い気がする。それでも見てしまう。そして見終わって、なんとも言えないやるせなさが残る。人の業の深さというか、仕方無しに犯してしまう罪に結局は足を取られて、みんなが不幸の連鎖に陥って誰も救われない様子を見続けさせられる。安っぽい勧善懲悪ではなく、善の方もろくでもないことをするし、悪の方もいろいろな事情を抱えている。不運が人の関係をすれ違わせることもある。
 パターンが同じで、スケールが大きくなるにつれて時間感覚がおおざっぱになってきているところはあったとしても、この手のドラマの中では群を抜いて質が高い作品であることは間違いない。前のシーズンでハマった人は、また今シーズンも楽しめるのも間違いないだろう。

ブログの掃除

 少しブログの整理をしました。カテゴリーを整理し直して、大昔に作ってそのままにしていたおすすめ本紹介をエントリー化して一覧できるようにしました。
 留学のタイミングでWebサイトを開設したので約4年半、ブログに移行してから3年半程経ってて、エントリー数ももう600ほど。最初の頃に何となく付けたカテゴリーが時間とともに意味を成さなくなっていたので、まずはカテゴリーを少し修正して、エントリーを整理し直した。
 次に、大昔に作ったおすすめ文献リストがそのまま残っていたのを片付けた。昔はフロントページなどを使って1ページずつ管理していたのでずいぶん手間だったが、ブログやオンラインで提供されているツールのおかげで作業はずいぶん楽にできるようになった。ほんの数年前のことなのに、隔世の感がある。
 たったこれだけでも3時間くらいかかってしまい、集中しすぎて疲れたので、続きの作業はまたいずれ。パッと見はほとんど変わってないのだけど、散らかった仕事場を整理してすっきりしたようなそんな気分になった。

北米版クソゲーワースト10

 雑誌「PCワールド」のカナダ版で、「The 10 worst games of all time」という記事が出ているのを見かけた。ベストゲームだったらグローバルによく知られたゲームが出てくるものだが、ワーストとなるとローカル色が豊かになって、知らないゲームばかりになる。カナダのパソコン雑誌の記事なので、これは北米版クソゲーワースト10。軽く取材して書いたような半分ジョークの雑誌ネタなので、話のネタ程度に軽く読んでください。

1. E.T.: The Extra-Terrestrial (Atari, 1982): Atari 2600
2. Super Columbine Massacre RPG (Danny Ledonne, 2005): Windows
3. Custer’s Revenge (Mystique, 1982): Atari 2600
4. Daikatana (Eidos Interactive, 2000): Windows, Nintendo 64, GameCube
5. Pac-Man (Atari, 1981): Atari 2600
6. Smurf Rescue (Coleco, 1982): ColecoVision, Atari 2600
7. Shaq Fu (Electronic Arts, 1994): Sega Game Gear, Sega Genesis, Super Nintendo, Amiga, Game Boy
8. Make My Video (Digital Pictures, 1992): Sega CD
9. Prince of Persia: Warrior Within (Ubisoft, 2004): PlayStation 2, Xbox, GameCube, Windows, cell phone, PlayStation Portable (as Prince of Persia: Revelations).
10. Elf Bowling (NStorm, 2005): Nintendo DS
ランク外
Death Race (1976)
Microsoft Bob GeoSafari (1995)
Postal (1997)
Deer Hunter (1997)
The Typing of the Dead (2000)
The Howard Dean for Iowa Game (2003)

 こうしてみると、「ユーザーの期待と現実のギャップの激しさ」を演出したゲームが「記憶に残るクソゲー」として思い起こされるようで、これは日米同じというところだろう。パックマンがランクインしているのは、Atariの移植版があまりにも出来が悪くてユーザーをがっかりさせたゲームだから。Daikatanaは、Doomをデザインしたことで有名なクリエイターの次回作ということで期待させながら延期でさんざんファンを待たせた挙句に失敗作が出てきたということらしい。
 あとは、「作りこみの甘い安易なタイアップ、キャラクターもの」、「人気ジャンルを追従して大失敗」、「実験的な挑戦にコケた」、「どうしようもなく見るに耐えない品のなさ」という要素のいずれかがここに挙げられた理由となっているように思われる。
 栄えある1位となったETはもちろんのこと(当時のテレビCMを見ると、手にした人の落胆ぶりが想像できる)、7位は人気バスケットボール選手のシャキール・オニールを使った格闘ゲー。タイトルからすでにグダグダな脱力感にあふれている。10位はクリスマスのサンタのボーリングゲームで、これも一応キャラクターもの。「人気のニンテンドーDSで、クリスマスものを出せばそこそこいけるだろう」という感じの企画の安易さがにじみ出ている。ダメなゲームというのは、どこの国で作られていてもそんな感じで、今や日本のDSマーケットにもそういうのは山ほど出ているだろう。初代ファミコンの頃はそんなのばっかりだったし。
 これらのゲームは幸か不幸か、クソゲーとして人々の記憶に残っているが、人目に触れず、話題にもならずひっそりと消えていった、誰も思い出してもくれないようなクソゲーがこれらの陰にたくさん存在する。安易な企画で適当に作られた、ユーザーの時間を浪費するだけでしかないゲームはクソゲーの名に値するし、ここにランクインしているゲームは、どうもそういう臭いのするゲームばかりだ。しかしその一方で、作った人たちが夢や想いを込めて世に送り出したけれども、何かの不幸が重なってクソゲー認定を受けてしまったゲームも数あることだろう。それは作った人たちの気持ちに思いを馳せると、いろんなドラマが想像されて泣けてくる。なので、一概にどれもこれもクソゲーと言ってバカにすることもできない。食べ物にはお百姓さんや料理した人の想いがこもっているのと同じく、ゲームにも作り手の開発者たちの想いがこもっていることを忘れてはいけない。
 あと一つ目を引くのは、The Howard Dean for Iowa Gameがランク外で登場していることだ。これはシリアスゲームの事例としてよく知られる、米大統領選挙キャンペーン用の広報ミニゲームである。ここにリストアップされているゲームの中で唯一のウェブゲームで、わざわざ取り上げられているところは、それだけ認知度はあったということなのだろう。一発芸的な狙いで即席で作られた低予算ゲームなので、こんなところで取り上げられるくらいにまで知られたのであれば、クソゲーと言われても作った側としては狙い通りといったところだろう。
参照記事:
http://www.pcworld.ca//news/column/e73b0b190a0104080187a604e28f6492/pg0.htm

「セカンドライフ」世界を理解するための本

 最近日本でも話題になっているオンライン社会生活シミュレーションセカンドライフの公式ガイドブック「Second Life: The Official Guide」はアマゾンの洋書ランキングで36位まであがっていた。テレビでも紹介されたりし、ゲーム系以外の講演イベントで開発者が呼ばれたりして、関心が高まっているとは聞いたが、たしかにすでに人気の「洋ゲー」といったレベルを超えて、一般に普及している様子がこの辺りにも現れてきている。
 このガイドブック、「地球の歩き方」のような旅行ガイド風で、セカンドライフの世界を旅してみるにはちょうどよい。英語だけど読み易いので、セカンドライフの日本語版が出る前にヘッドスタートを切りたい人や、すでに始めているけど今ひとつ入り込めないという人にはちょうどガイドになる。私もセカンドライフは土地を持たずにたまにイベントを見に行ったり、名所散策するだけの超カジュアルユーザーなので、知らない情報がたくさん載っていて重宝している。
 このガイドはセカンドライフ自体を理解するのにとてもよい本だが、セカンドライフに興味のある人にはその世界の背景を知るための文献として「スノウ・クラッシュ(ニール スティーヴンスン 著、早川書房)」をおすすめしたい。バーチャル世界「メタヴァース」と現実世界を行き来しながら展開するSF小説で、1992年に出版されてベストセラーとなった。セカンドライフの開発者たちはこの小説に大いにインスパイアされて、かなりの部分をこの小説で描かれている「メタヴァース」をモデルとしているので、その意味ではセカンドライフの元になった作品とも言える。SF小説が未来世界のイメージを人々に伝えるという役割を果たしているが、この作品もそういうところを大いに兼ね備えている。
 バーチャル世界のイメージを映画「マトリックス」のような感じで捉えている人には、さらに豊かなイメージを持つことができるだろう。マトリックスはかなり影響を受けていると思うし、日本刀を振り回す主人公の描き方は、タランティーノが「キルビル」でやっているところに通じる。
 セカンドライフの周辺にいる人たちが「メタヴァース」と言っているのを聞いて、あぁなるほど、と反応している時は、この小説に描かれた世界を共有している。なので、少しセカンドライフにはまってみようと思っている人は、こちらも合わせて読んでみてください。