「ゲームの力をビジネスに活かす」という考え方が受け入れられにくい理由

 「ゲームの力を社会に活かす」という考え方は、以前より受け入れられてきた感がありますが、最近のゲーミフィケーションの流れを引っ張ってきた「ゲームの力をビジネスに活かす」ということは手放しで歓迎されていないところがあります。
 一般からすれば、そもそもどちらもそんなに受け入れられてないだろう、という話になってしまいますが、教育から一歩離れて、マーケティングや組織活動にゲームを取り入れる、というフィールドを見てみると、そこには教育の分野とはまた異なる温度差が存在しています。端的に言えば、そこには「ゲーム」が持つネガティブなイメージが影響しているということなのですが、ではそのネガティブさというのはどこから来ているのでしょうか(外は暑いので、家の中にこもってそういうことを整理して考えてました)。
 古典的なカイヨワの遊びの分類を援用すれば、遊びには競争、運、模倣、スリルといった要素があり、スポーツやギャンブルやテーマパークのような娯楽として文化の中で形成されてきました。テレビゲームも娯楽として発達し、それらがゲームに対するイメージの一端を形成しています。そのようなゲームが娯楽以外の領域、特にビジネス活動に入り込んでくることへの拒否感は、多分に娯楽として形成されたゲームのイメージから来ているところがあります。中でも案外影響が大きそうなゲームの性質として、次の3点について考えてみます。
1.ゲームには常に勝者の背後に多くの敗者がいるということ
2.ゲームには常に明示化されていない勝ち方があること
3.ゲームには常に好みが伴うこと
 まず1.については、社会に定着しているゲームの多くが競争要素の強いゲームで、ゲーム=競争というイメージが形成されています。競争に勝って金メダルや優勝の栄光を手にできる勝者はごく一部で、残りの大半の参加者は悔しい負けと挫折を経験する敗者です。悔しい負けを突きつけられても割り切れるのは、ゲームの世界が日常と切り離されているからであって、日々の生活と切り離されていない所にいきなりゲームが入り込んできて、勝ち負けを明示されるのは、負ける側からすればあまり気持ちのよいことではありません。
 人間、生きていればいろんなことで負けますし、勝てないゲームに無理やり参加させられるのは実に嫌なものです。そうでなくても、出世競争や受験戦争や市場競争のような、至って真剣で、生きていれば強制的に参加させられるゲームがあり、理不尽な思いをさせられて生きています。そういう「やらされるゲーム」のなかで嫌な思いをしている人々が大半を占める社会の中で、チョコレートで包むようなゲームの使い方を取り入れようとしても、そこにはある種の空々しさへの違和感を生み、それがゲーミフィケーション的なものを忌避する気持ちになっていても不思議ではありません。
 2.についても1.と同様、ゲームに参加していて、なぜか上手く勝ち上がっていく人と要領を得ないで遅れを取る人がいて、普通の人はよくわからないうちに損をするのがゲームであるという認識が根底にあるように思います。下手をするとゲーム提供者がはじめから勝てないように設定していたり、ズルい仕掛けに乗せられて参加して、気がつくと負けてお金を巻き上げられて悔しい思いをする、ギャンブル的なゲームの性質がゲームに対するイメージがついています。
 日々を普通に生きていると、わけもわからず負け組になり、その中で要領よく勝ち上がっていくコツはほんの一握りの人が知っている、という社会の現実のなかで、またつまらないゲームに乗せられるのは勘弁してほしい、という明示化されてないゲームへの嫌気が社会の中のゲームに対するイメージとして少なからずあります。パチンコ業界や最近のソーシャルゲームのガチャ問題への社会的な嫌悪感でゲーム全体が語られがちなのも、ゲームの胴元はズルをするという、ダーティなイメージがベースにあることも影響していると思います。
 3.については、ゲームについて語られている時に案外見落とされていることです。ゲームといってもいろんなタイプのゲームがあり、ゲームが好きと言う人でも、どんなゲームもオールマイティに好きな人というのはあまりいなくて、好きなゲームや得意なゲームは楽しいけど、そうでないものはあまり興味が無い、という人がほとんどです。楽しさの要素を取り入れることを考えた時点で、人が持つテイストや好みといった要素に左右されるようになり、それが案外影響していることはあまり語られません。
 競争が好きでない人には競争的なゲームは向かないし、逆に競争的でない協力ゲームも好みが分かれます。また、面白さを評価の基準に入れた時点で「面白くない」で切られる余地を与えてしまうこともゲームの持つ弱みと言えます。たとえゲームが好きな人であっても、嫌いなテイストや世界観のゲームが生活の中に入ってきても、あまりうれしくはなく、余計なゲームならやりたくないから放っといてほしい、という反応が起きても仕方ありません。
 これらの点を考慮すると、ビジネス活動へのゲーム要素の導入は簡単ではなくて、安易にやってしまうと逆効果になることも無理からぬことです。なので何でもゲームにすればよいのではなく、どんなタイプのゲームでも効くわけではありません。ゲームの好みを超えて受け入れられるためには、優れたゲームを提供することが必須ですし、目的とする活動の改善や付加価値に対して、より適切なゲームの手法や要素は何かをよく考えて取り入れることが必要です。また、ゲームに限らずどのような普及活動においても当たり前のことですが、あまり考えずに万能薬のような過剰な期待を持った人にこそ、適切にゲームの強みや弱みを説明するための言葉を磨いていく必要があります。
 この辺りのことは、さらに文化的な問題としての「遊び」と「真面目さ」に関する認識の問題や、ゲームの性質としての自発性の問題、さらにはゲームの参加者のゲームの構造を見抜く力の問題なども絡んでくるので、それぞれ議論を深める必要がありますが、ここまでで十分長くなったのでここから先は次の機会に回したいと思います。