オープンエデュケーションの意義

 先日のBEATセミナーのシンポジウムのテーマだった「オープンエデュケーション」について思ったことを少し。


 オープンエデュケーションの取り組みは、MITの「Open Course Ware」プロジェクトがその例としてよく紹介されている。そこでは、大学の授業で使われた教材がネット上で一般公開されている。今回は、そのMITの活動以外にも複数の取り組みが行われていることが紹介されていた。東大でもUT Open Course Wareというのをやっていて、これが日本で一番よく知られた事例なのではないかと思う。
 講演でも会場とのディスカッションでも、オープンエデュケーションの取り組みにはさまざまな問題が絡んでいることが議論された。組織内での協力体制の作り方や、コンテンツ提供する教員の支援体制や著作権などの権利問題への対応、利用者側への配慮、予算の確保や継続的な活動を支えるための基盤作りなどのそれぞれの側面で難題があり、イニシアチブをとるMITも必ずしもすべての問題にうまく対処できているわけでもないらしい。
 推進する大学やコンソーシアムがそれらの問題への対処の仕方をどう捉えるかによって、進め方に違いが出ている側面がある。MITはとにかく授業で使ったものをそのまま公開する方針でやっているが、カーネギーメロン大はユーザーが学びやすいように提供する教材を新たに作り込んでから公開する。授業の映像配信に力を入れるところもある。それぞれに強みや弱みがあり、活動の狙いや力のいれどころによって推進体制やコンテンツの性質は変わる。紹介されたいずれの取り組みも、これまではとにかくやってみることが重要だからまずは進めていきましょう、という段階で、内容の充実や質の向上にようやく目が向いてきたところにあるという印象を受けた。
 コンテンツ提供する教員にとってのメリットやインセンティブは何か、という話が出た。自分の手がけたものが広く世の中で利用されることそのものにメリットがある、という答えがあった。だが、そのように前向きに考えることのできる教員はごく一部で、多くは自分の授業や教材が自分のあずかり知らぬところで人目に触れることを肯定的には捉えない。手抜きがばれたり、やり方に批判を受けたり、自分の授業の付加価値が低下したりすることを怖れる教員の方が多いだろう。MITや東大の教員ならば人目に耐えると自負する教員も多いかもしれないが、多くの大学では自分の普段の授業をそのまま公開するということには抵抗の方が大きいのではないか。より多くの人目を意識したものを準備するのは、教員にとっても負荷が大きくなるし、ただでさえ忙しいのにそんなことをやるには、よほどの組織内のリーダーシップがそんざいするか、協力することで業績面のメリットが提供されるのでない限りは難しい。
 また、大学側が広報的なメリットを感じてこの取り組みに関心を持つという話が出ていた。その一方で、このような取り組みを進める大学はすでにブランドが確立された大学ばかりで、本当に広報的なニーズがある大学は参加しておらず、たとえば、日本でオープンコースウェアに取り組む大学コンソーシアム、「日本オープンコースウェア・コンソーシアム(JOCW)」に参加している大学が有名大学ばかりだという例が飯吉先生から出された。
 この点は推測するに、これらの有名大学からすれば、「他所がやっていて自分のところがやっていない」ことの広報的なデメリットへの懸念があるのだろうし、あまり有名でない大学からすれ「うちの大学の授業を公開したところで大して見向きもされないのではないか、そんなことを労力をかけてやる意味はあるのか?」という懸念が影響しているのかもしれない。
 オープンエデュケーションの推進は、飯吉先生が指摘するように情熱があることが大事で、意志を明確に持ってことにあたれば、東大や有名大学でなくてもやれるのは間違いない。しかしどんな大学であれ、推進しようとすれば組織内外のあちこちから問題が噴出してきて、議論は尽きないだろう。どこかの段階でリーダーシップがとられなければ実現しないし、自分たちの組織の抱える問題に直面せざるを得なくなる。
 オープンエデュケーションの取り組みそのものは、個々の教育方法やテクノロジーを扱う個別の教育活動よりも、むしろそれらを統括する教育政策的な取組みで、組織にとっては変化の度合いが大きい性質のものだろう。オープンエデュケーションを呼び水として組織を変えることへのモチベーションを持ち合わせていれば、本来の趣旨に合った成果も大きくなる可能性は高まる。逆に組織へ与える影響をなるべく小さくしようとすれば、広報的な意図でちょっとした公開講座をやる程度の取り組みにとどまるのだろうし、それが多くの大学におけるオープンエデュケーションの現状だろうと思う。