どこにでもある「あるある」問題

 ここしばらく、日本では「あるある大事典」の捏造問題で大騒ぎになっているのをネット上のニュースでよく目にしている。発端となった納豆だけでなくて、味噌汁もあずきも実験データはインチキだったという話で、今までの放送の信憑性そのものが疑われ始めていて、さらには同様の健康情報番組にも疑惑の目が移っているという状況には、情報源の多い日本の皆さんの方が詳しいと思うので説明の必要はないだろう。
 データの捏造については、実験の方法やデータの集め方をいちいちあげつらえば、いくらでも難癖は付けられる。すでに世の空気がバッシングに傾いているため、今までスルーしてきたことがすべて今明るみに出たような風に取り上げられ、「なんてひどい番組だったんだ」という社会的な評価を下される。実験に参加した人たちや、コメントを取られた専門家たちも、ここぞとばかりに「私はずっと怪しいと思っていた」などと言い出す。これは「不二家の期限切れ原料使用問題」でこれまでの問題が掘り起こされて批判的風潮にさらされているのと状況は酷似している。
 いただけないのは、みんな被害者面をして叩けばいいと思っていることだ。視聴者は「だまされた」と口を揃えて言う。視聴者の問題は多分に情報リテラシーの低さの問題に起因している。むしろこのような極端な情報に影響され過ぎる風潮に水が差されて、こういう話を安易に鵜呑みにしてはだめだという社会的な教訓となってよかったと思う。楽してやせようとか、苦労せずに得しようというような、虫のよい話はインチキだったり裏があったりするのが常なのだし、納豆代程度の被害で教訓を得たのだからありがたいと思うべきだろう。
 さらに根が深いのは、被害者面をしているテレビ局や広告代理店、スポンサーなどの提供者の側だ。彼らもただ制作会社を悪者にして言い逃れをし、今後このようなことが再発しないようにと、おそらくは制作会社をさらに締め付ける方向で社会の関心をそらしてやり過ごすことだろう。
 だがここには、テレビ業界のシステム的な問題があり、さらには他の業界や日本社会全体に共通する問題が内在している。図式としては、強者や支配者による被支配者の締め付け的な構図に起因していて、その中ではいかに成功しようと失敗しようと、最終的には誰も報われない構造になっている。テレビの世界では、番組が当たれば視聴率が上がり、その番組からの収益が上がる。収益が上がれば制作側への期待とプレッシャーは高まる。同じレベルの刺激では視聴者に飽きられてしまうので、さらに刺激の強いものが制作側に要求される。期待の上昇に見合った予算やリソースが提供されるわけではなく、要求だけが高まる。無理をして結果を出すのも長続きはせず、結局は今回のような実験データの帳尻あわせに走り、それが慢性的な不正体質化につながる。中途半端にヒットを飛ばしてしまうと、この構造の中でブレイクダウンを起こすまで消耗させられるため、平凡な仕事しかできない場合よりも、最終的には不幸な結果につながるリスクは大きくなる。
 この構図は、テレビ業界だけでなく、どこにでも見られる。高校の必修科目未履修問題も根は同じだ。大学受験で結果を出すことが評価につながり、行政から降りてきた施策への対応も同時に求められ、現場レベルではパンクする。結果として、現場レベルであまり目立たない形で帳尻を合わせようとして安易なソリューションに走る。隣の高校でそんなことをしていると聞いて、ではうちも、という形で次々に伝播する。暗黙の了解とされていたものが、あるタイミングですべて明るみに出て、学校が悪者となり、批判が集中する。
 まっとうで普通に仕事のできる人間も、ずっと締めつけられて無理を強いられ続ければ、創造性は枯渇して仕事のクオリティは下がるし、限界を超えればどうしようもなくなって不正に走りやすくなる。あるいは精神に異常をきたしてしまうか、最悪なケースでは死を選んでしまう。視聴率だけを追い求めて、制作側にキャパシティを超えた負担をかけ続ければ、このような抜け道を考え出して、間に合わせようとする事態は容易に起こる。スポーツ選手も周りの期待が過度すぎて追い詰められればドーピングで切り抜けられるような気がしてくる。売れっ子の作家も仕事をさばききれないままにプレッシャーだけかけ続ければ、ちょっとだけのつもりで盗作に走って泥沼にはまる。学校で安易に民間校長を呼んで教育委員会と教員組合の間で板ばさみの状態で放置すれば、思い余って死を選びたくもなる。
 どんな組織にも、似たような構造はあって、これを変えていかない限り、このあるある大事典のような問題はあちこちでいくらでも起こる。明るみに出たものだけを批判しても状況は改善せず、監視を強化するという安易な対策は、社会的コスト増と現場レベルの生産性を下げることにつながるだけで、よい結果につながることはまずない。
 問題の根源には、作り手のモチベーションが軽視されていることがあるし、個人も組織も、社会全体が何か魔法のようなお手軽なソリューションを求める風潮もある。期待だけしていれば誰かがすごいことをして助けてくれるのではないかという受身な姿勢や、問題があっても見て見ぬ振りをしてやり過ごす姿勢もある。
 そんな状況ではどんな成果を出そうと、誰も報われないし、むしろ下手に成功してしまうと、そんな破綻へのレールに乗ってしまいやすい。そして問題が顕在化してきた時にはもう手遅れとなっている。これは他人事ではなく、誰の身にも起こり得る。だが、残念ながらこの状況は容易には変わらず、個人はその中で生きていくことを余儀なくされる。個人レベルでできることは多くないが、まず大事なのは、少なくとも自身がそのような状況下に身を置いているということを認識し、不正や破綻への道が目の前に広がって来た時に見えるシグナルを見過ごさないようにすることだろう。