知の源泉

 夏学期のコースは、「定性データ分析」と「イノベーションの普及」の二つを取っていて、この週末から「定性データ分析」の方が始まった。毎週金曜夕方と土曜終日の授業を3週にわたって行なう短期集中コースである。このコースのインストラクターはDr. イアン・バプティスト。うちの学部のお隣の成人教育学科の学科長である。カリブ系の黒人で、見た目は完全にレゲエ兄ちゃんといった雰囲気であまり教授っぽくない定性的研究者である。うちの学部、ラーニング&パフォーマンスシステムズは、定性的研究の研究者の方が勢いがあるのだが、その勢いの源の一人がこのイアンである。


 彼は定性的研究の理論家で、これまでの理論家が整理し切れなかった概念を整理しながら日々進化している。研究の考え方やリサーチデザインについてとても情熱的に語る。カリビアンや南部の黒人は、道端で世間話をしていても情熱的に話しているように聞こえるので、ただ大げさなだけなのかもしれないが、彼のレクチャーは人をひきつけるエネルギーにあふれている。彼のレクチャーを聞きながら、彼の発するエネルギーは、知を創造し、知の先端を行く人が共通して持っているものだと感じた。その知のエネルギーは、学習者のモチベーションを高める。それは小手先の教育技術などではカバーできない強力な影響力があり、IDをどんなに使おうがそれは手にすることはできない。この知のエネルギーを生むのは、技術の問題でなく、気合の問題である。教育技術はなかろうとも、気合を持って物事に取り組む人が学習者に与える影響力は大きい。知の源泉たる研究者が集積する大学が研究機関であると同時に教育機関として機能してきたというのは理にかなっている。教育技術は稚拙だったとしても、情熱を持って研究に取り組む姿は、それ自体が教育的価値を持つからである。
 私が今までに会った研究者で勢いのある人は、みな何らかの形で先端を走っていて、新たな知を創造しようという情熱に満ちていた。研究者に限らず教育者も、自分がこの生徒達の教育を一手に引き受けようという覚悟とよりよい教育を行なおうという意欲を持った教育者は皆、同様なエネルギーを発していた。大学受験予備校のトップ講師たちは、陳腐な大学受験対策を教えていても、日々新しい方法を編み出そうと励み、自分の受け持った生徒達の合格を請け負う覚悟で取り組んでいた。彼らも知の先端にいて、知の源泉たるものが持つエネルギーを発していたのである。知の源泉たろうとする人材のいる組織は勢いがある。逆に、多少技術的には高くても、自分が何とかしてやろうという意欲に欠けた組織というのは停滞している。知を創造していない大学、MBA的な小手先の経営テクニックに走る経営者が率いる企業、事業の結果に関心のない官僚組織、どれをとってもダメ組織である。
 教育技術を専門とするものが、気合だ情熱だと観念論に走っていると取られると大きな誤解である。何かの目的を果たそうという強い意志の欠けた技術は、画竜点睛を欠いて使えないばかりか、それだけではむしろ有害となる場合もある。私が学習者として一番学ぶ時というのは、そこに全人格的に理論や技術を体現した人がいたり、学んでこういう人になりたいと思う人がいる場合である。技術や理論だけを切り出して完全に教えることができると考えるのは教育工学者の幻想である。学習社会というのは受動的な娯楽としての知や消費のための知を求める学習者がいる社会ではなく、学んで自らがどんなささやかなことでも知の源泉となろうとする人がそこかしこにあふれ、その人を中心とした自発的な学習コミュニティが次々と立ち上がるような社会である。そして、そうした社会は教え、学ぶ技術と、学んだことを使って何かをやり遂げようという強い意欲が支える。どんな領域や技術を専門とするにしても、そうした学習社会の実現こそが、教育工学者が目指すべき社会像なのではないかと思う。